ぽんぽんびより

本業は写真家なのに町づくりや震災支援の仕事に巻き込まれてます。

私がウォーキング・デッドを見なくなった理由―トランプ就任を予見していたかのような銃社会とゾンビ軽視―

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今更説明不要なまでに有名な海外ドラマ『ウォーキング・デッド』。

私もこのドラマをHuluでわくわくしながら見たものである。

しかし、私はとたんにウォーキング・デッドに飽きてしまった。

 

 

その理由は、あまりにも銃社会を善しとする風潮とゾンビが軽視されているからである。

 

 

シーズン1の頃はまだ面白かった。

主人公を含め、登場人物達はゾンビ一体に対しても恐怖を感じていた

ゾンビの大群に囲まれたら命からがら戦車の下に潜り込んだところなど、手に汗握る展開だった。

ゾンビの脅威から逃れたと思ったら、今度は人間のグループの中でぎくしゃくが始まる。

自分達の利益のためなら平気でレイプや殺人を犯す暴徒もいる。

「お、これは正統派ロメロのゾンビドラマか!!」と驚いたものだ。

 

 

しかし話が進むに連れ、ドラマのヒルビリー精神が顕著になってくる。

 

www.newsweekjapan.jp

 

gendai.ismedia.jp

 

男だけでなく女性も武装するのは当たり前。

作中の大人達は子ども達にも武器を持たせる。

我が子に銃を持たせようとするリック

幼い女の子のリジーやミカに銃を渡し、戦い方を教えるキャロル

子ども達が銃でゾンビを倒すと、作中の大人達は「それでいいの」「自分の行動を理解して」とまるで洗脳のように何度も言い聞かせる。

銃でゾンビを撃つのをためらえば、軽蔑の眼差しで見る。

なぜ撃たないのかと問い詰めることはあっても対話をしようとはしない。

逆にゾンビが脅威であることを理解してと詰め寄る。

そのくせ、子ども達が銃を撃てないことを大人は理解しようとしない

ロメロの意思を次ぐならば、ゾンビを一人の人間として理解しようとしたリジーこそが正しく、「ゾンビは敵だ」という集団心理の中に芽生えた新しい発想なのである

このドラマは新しい発想というものを毛嫌いしているフシがある。

ゾンビは敵なのである。

それ以上でも以下でもない。

暴徒に対する扱いもこれまた酷い。

作中では暴徒のことを「stranger(見知らぬ人、他人)」と総称する。

そのstranger達は礼儀知らずで、暴力的で、下品でバカある。

唯一コミュニケーションが成立しそうなガバナーは、実は自分の町の住民を洗脳している利己的な人物である。

住民はガバナーになんの疑いも持っておらず、ガバナーの言うとおりに蜂起し主人公サイドを苦しめる。

視聴者はガバナーの本性を知っているため、洗脳されている住民は非常に滑稽で腹立たしく見える。

このドラマはまるでアメリカ至上主義のプロパガンダである。

武器を持って戦い続ける者が偉く、敵は醜く知能を持たないゾンビか下品で卑劣なstranger。

登場人物達のほとんどがウエスタンブーツを履いているのも目立つ。

主人公達が敵と戦う姿は、まるでカウボーイが悪い奴らをばっさばっさと倒しているかのようだ。

話の合間に時折流れるカントリー音楽も露骨で寒々しい。

 

 

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』で暴力的な白人達が生き残っていたのは、あれはあの当時のアメリカを皮肉っていたからである。

ランド・オブ・ザ・デッド』が面白いのはバカだと思っていたゾンビが実は情に厚く、意思があり、賢かったからである。

1979年の『ゾンビ』達に意思がなく、ただフラフラしていたのはショッピングモールにただなんとなく集まる人間を皮肉っていたからである。

 

 

断っておくが、コマーシャル映画はありだと私は思っている。

世界侵略:ロサンゼルス決戦』などアメリカ軍賛美であることは明白だ。

だが、あの潔さとバカっぽさと上映時間が観客側に「はいはい。これプロパガンダね」と割り切らせてくれるので好きだ。

だが、連続ドラマで「自分の行動を理解して」と呪文のように唱えるウォーキング・デッドはやはり洗脳ドラマだと思う。

トランプが大統領に就任する前から始まったこのウォーキング・デッドはトランプが大統領に選ばれた後も人気が衰えない。

作中の「こんな時代だから、自分達を守るためにゾンビも人間も殺さなければいけないの」と繰り返し唱えられるセリフはまさにトランプ政権そのもの。

見ていて鳥肌が立つ気持ち悪さである。

 

 

ウォーキング・デッド

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なぜ踊る大捜査線はクソつまらなくなったのか―観客は1997年から成長してるんだよ―

Netflixで劇場版踊る大捜査線の3作目(踊る大捜査線THE MOVIE 奴らを解放せよ)があったので見てみた。

この映画はライムスターの宇多丸さんが酷評していたので、どれだけ酷い映画なのかはあらかじめ把握済みである。

が、見てみると、とにかく予想よりも酷い。

酷すぎる。

酷すぎて「踊る大捜査線ってこんなにつまらなかったっけ?」と自分の記憶を疑ったほどである。

 

 

 

踊る大捜査線のテレビドラマが放映されたのは1997年。

私が小学生の時だった。

毎週欠かさず両親と見ていたのを思い出す。

踊る大捜査線がなぜあんなに面白かったのか。

それはリアリティフレッシュさ90年代の不安滲み出る和久さんの人生観があったからだと思う。

 

踊る大捜査線のリアリティ

踊る大捜査線は「警察官も所詮は組織の一員でサラリーマンと一緒だよね」ということをよく描けていた。

組織の一員だから上司がいて、支店と本店の違いがあって、会議の時に座る席も決められていて、接待も必要で、残業はカップラーメンを食べながら嫌々しないといけない。

踊る大捜査線以前の刑事ドラマのような情熱と人情で時にはルールを破ってでも事件を解決し被害者を守るということは実際の刑事には難しいよね、というリアリティが私達視聴者を釘付けにしたのである。

だからこそ、テレビドラマシリーズの最終回で室井さんが青島と一緒にルールを破って犯人を探す展開が熱かったのである。

 

 

踊る大捜査線のフレッシュさ

踊る大捜査線は脱サラした青島が刑事になるところから始まる。

念願の刑事になったのに周りの同僚は事件解決を仕事の一つと捉えており、パトカー一つ使うのに書類が必要なことやバリバリの縦割り社会に戸惑い、呆れ、腹も立てる。

しかしドラマが進むに連れて、「事件に大きいも小さいもない」という恩田さんのスタンスや刑事としての自分の勘を信じる和久さんの生き様に影響を受け、青島は警察組織の中での自分の立ち位置をポジティブに考え始める。

この「自分の理想とは違う世界に入り込んでしまったけど、その中でうまく自分を理想に近づけていく」青島のフレッシュさが視聴者の心を掴んだ。

 

 

90年代の不安

踊る大捜査線シリーズに出てくる犯人は1990年代後半の我々の不安をよく表している。

酒鬼薔薇事件が発端となった少年への嫌悪感。

宮崎勤事件を代表としたアニメへの恐怖感。

インターネットやパソコンの急速な普及

グローバル化が進み外国を気軽に行き来できるようになった日本。

などなど。

加えてノストラダムスの大予言が流行っていた時代である。

世紀末の独特な空気感があの当時はあった。

そんな時代に日常生活に飽きたから犯罪を犯してしまったとか

なんかよくわからない闇のルートで爆弾や銃を手に入れてますとか

アニメオタクが歪んだ性癖で女性を暴行してますとか

インターネットで崇められている猟奇殺人犯がいますとか

ゲーム感覚で犯罪をこなす若者がいますとか

機械しか信用しないプロファイリングチームとか

にリアリティを感じることができた。

 

 

滲み出る和久さんの人生観

そんな現代的でよくわからない理由で犯罪を犯す者に対峙する青島は縦割り社会の窮屈さもあって自分を見失うことがしばしばあった。

そんな青島に対して厳しく、でも根は優しく諌める和久は青島にとっても視聴者にとっても救いだった

「正しいことをしたければ偉くなれ」とか「疲れるほど働くな、次がある」とか「上の者のために自分の信念を曲げる必要はねえよ」などは青島に向けられた言葉だが、私達は青島を通して自分への言葉だとしっかり受け止めた。

 

 

視聴者は大人になった

ところが、時代は2000年をとっくに過ぎた。

インターネットは誰もが使うものだ。

ネット上でのコミュニケーションは当たり前

犯人が犯行を犯すのには何か因果関係があることを私達は知っている。

善良な市民がある日突然アニメやネットの影響で人格が歪み猟奇殺人を起こすなんて大真面目に考えている現代人はそうそういない。

ネットカフェを使うなんて今時普通だし、リストラされた人や派遣社員なんて普通にいる

映画の中でネットに傾倒した若者達が小泉今日子演じる日向を狂信しているシーンがあるが、最近の若者はそんな非生産的なバカなことはしない。

若者にもやらなければならないことはいっぱいあるし、それこそネットやテクノロジーに詳しい若者だったら起業でもしているだろう

そもそもネットに繋いで、国内のしかもせいぜい湾岸署管轄内のローカルな犯罪者だけに傾倒する暇人がいるわけがない。

警察内部の人間もパソコンやネットに詳しくなさすぎである。

パソコンをいつも使っている刑事が「ネットにくわしくて〜」と言うシーンなどは鳥肌が立つくらい恥ずかしかった。

私は警察を定年退職された方が警備会社を設立し、仕事をしているのを知っている。

どんなに高齢であっても今時の人はパソコンを使うのが当たり前なのである。

さらに青島の成長してなさっぷりに腹が立った。

上司や本庁の人の意見を無視し、勝手に行動する子どもっぷり。

青島よ、お前はもう係長になったのだろう。

お前には部下もいるのだろう。

そんな男がいつまでもルールや規則を無視して勝手に振る舞って良いわけじゃないんだよ。

お前はもうフレッシュじゃないんだよ。

視聴者が1997年から成長したように、お前も成長しないといけないんだよ。

そう諭したくなった。

本庁の人間が「所轄は引越しでもしてろ」と怒鳴るシーンも違和感がある。

本店と支店の争いは劇場版の二作目で解決しているのである。

室井さんが「捜査を立て直す!」と叫び、本店も支店もSATも身分を超えて自分達で選択して行動をしたところで「本庁vs所轄」の構図は視聴者としては解決したのである。

それを踊る大捜査線の制作スタッフはまだ引きずっている。

踊る大捜査線は本店と支店の対立を描かなければいけないんだと勘違いしている。

現代では本店と支店の対立なんてリアリティを感じない。

むしろ劇場版二作目で本店と支店の対立を解消し、その後交渉人真下正義や容疑者室井慎次で「個」に注目したからこそ、あえて「チーム」というものを掘り下げて日本のこれからの組織の在り方を問わなければならなかったのである

極めつけは和久さん(いかりや長介)を作中でも亡くなったことにして、和久伸次郎という親戚を出してきたかと思えば和久ノートというメモ帳にメモした和久さんの名言集を変なタイミングで読み上げるという愚行である。

視聴者からしたら「お前なに言ってんだ!」である。

和久さんの名言集なぞはNAVERまとめにあるのである。

それに新人の刑事がメモを読み上げた所で全然心には響かない。

あれは人生でほんとに色々な体験をされてきたのであろういかりや長介演じる和久さんが言うから言葉に深みがあったのである。

私が青島刑事なら真っ先に叱り飛ばすところである。

しかし、青島含め先輩刑事達は「見せて」「懐かしい」と和久ノートに群がる。

これでは偉人の名言集をなんの考えもなしに買っている連中と変わらない。

 

 

踊る大捜査線の成長した観客に対する不誠実さについて書かれた記事は他にもある。

www.insightnow.jp

 

 

 

こうして踊る大捜査線は単なる老害達が現代日本への偏見たっぷりで作った低レベルフィクションに成り下がってしまった。

唯一評価できるのは、小栗旬演じる鳥飼が小泉今日子演じる日向と出会うシーンである。

鳥飼は日向と目が合ってしまい、その魅力に吸い込まれそうになる。

狂気的に絵を描く音も相まって、視聴者も日向の目に吸い込まれそうになった。

あれは、やはり小泉今日子の演技力のおかげだと思われる。

だから、「あんまり目、見ないほうがいいっすよ」と慌てて止めた青島の行動も納得させられるのである。

小泉今日子はやっぱりすごい。それがわかるいい映画だった。

それ以外はほんとに見る価値のない老害映画である。

 

 

 

 

 

 

避難所の設営をした人間から見たシン・ゴジラの避難所の描写について

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庵野秀明監督による実写映画「シン・ゴジラ」。

公開前から話題を呼び、公開されてからはさらに話題を呼んだ。

 

 

私は東日本大震災熊本地震で被災地や避難所、避難者に関わったことがある。

そんな私の目線で見たシン・ゴジラの避難所の描写は涙がこみ上げてくるくらい生々しかった。

床に敷かれたぺらぺらの毛布

プライバシーなど皆無な誰からも丸見えの空間

紐にかけられた洗濯物

座っている人、寝ている人、立っている人

子どもがあぐらをかいて座って、漫画を読んだりゲームをしている様子。

段ボール箱の上に置かれた食器や水筒やラジオ。

体育館のステージに置かれた補給物資も生々しい。

実際の避難所はこの空間に異臭という要素も加わる。

毎日入浴できるわけではないので、体臭が避難所には立ち込めている。

さらに配給のお弁当を食べ終えた後のゴミをゴミ箱に入れているので生ゴミの匂いもひどい。

避難者は先行き不安な避難生活にストレスを感じているため、緊張で顔がこわばり(同時に疲弊し)ピリピリしている。

私達のような外部の人間が怒鳴られることも珍しくない。

それだけ避難所は切羽詰まっているのだ。

 

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラを読むと、作中の避難所のセットは区間ごとに設営しないといけなかったため、撤去より設営に時間がかかったという。

私が携わった避難所も全く同じだった。

数人でチームを組み、担当区画の設置をしていく。

世帯ごとに人数や健康状態が異なるため、避難者のニーズに合わせて設営していかなければならない。

足の悪い家族がいるところはお弁当の配給場所に近い場所を所望されるので、毛布やダンボールベッドやランプを設置をしながら避難者一人一人のニーズも拾っていく。

もちろん特定の人物だけ特別扱いはできないので、「こういったニーズがあった」という事実を避難所の管理者にフィードバックして、その後の避難所運営に活かしてもらう。

 

 

一方で避難所の撤去は避難者が誰もいなくなった後に片っ端から物を片付けていくだけなのでスムーズで速い。

それはもう呆気ないほどの速さである。

 

 

シン・ゴジラのスタッフはいったいどうやって避難所の様子をリサーチしたのだろうか。

映画の製作時期は3.11の避難所設営からは随分後であるし、熊本地震よりも前のはずである。

写真や何かの記録を参照したはずであるが、プライバシー保護の観点でなかなかそういった資料は見せてもらえない。

シン・ゴジラのスタッフはよほど優秀だと思われる。

あの映画は、世間で評価されている以上に恐ろしく完成された映画だ。

 

 

シン・ゴジラ DVD2枚組

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シン・ゴジラ Blu-ray2枚組

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ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

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