酷評されてる『クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者』を観てみた。いや、普通に面白いよこれ! 観たほうが良いよ!!
最近Netflixでクレヨンしんちゃん映画が観れるようになったので、
今まで観てない映画を片っ端から観てみた。
私の好きな堀江由衣さんが出演しているので気にはなっていたのだが、あらゆるところで酷評されているので嫌厭していた『クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者』。
このまま観ないのももったいないので、勇気を出して観てみた。
本郷監督だし、好きな声優さんが結構出てるし「面白くなかったらどうしよう...」と心配だったのだが、観終わってみると「え、ふつうに面白いじゃん!」と唸ってしまった。
ところどころ粗はあるかもしれないが、ネットで酷評されるほどのことはないよなーと思うのだ。
むしろ、本作、かなりクレヨンしんちゃん映画のクレヨンしんちゃん映画らしさがちゃんとあるなあと思う。
この記事では金矛の勇者のクレヨンしんちゃん映画らしさについて書こうと思う。
そのクレヨンしんちゃん映画らしさを語る前にネットに書かれている酷評に対して私なりのアンサーをしていきます。
>>敵に襲われた翌日のしんのすけの話が、「どうせ嘘だろ」「夢だろ」と辛辣に聞き流されてしまうのが不快。
これに関して言えば、私は寧ろ原作の雰囲気に忠実だと思った。
なぜなら原作漫画、特に初期の原作漫画ではしんのすけはほんとに奇っ怪な迷惑でうるさい5才児扱いなので、周りの大人や幼稚園の同級生はしんちゃんをほんとに迷惑な存在として扱うのである。
それは劇場版1作目『クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王』の夏休みに突入するのを心底嫌がるみさえのシーンでも描かれている。
>>ひろしとみさえが喧嘩するシーンが不快。みさえがひまわりの言うことをいちいち訳すのがおかしい。
これもたしかに最近のクレしん映画としては珍しいかもしれないが、寧ろ昔のクレヨンしんちゃんに忠実な印象を受ける。
ひろしとみさえはしょっちゅう喧嘩するのである。子育てのことで喧嘩して、ひろしが他の女の子にデレデレすることに対して喧嘩して、ひろしの給料のことで喧嘩して。これは原作漫画ではよくある展開だし、過去の映画でもよくある展開である。
例えば『クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝』では飛行機から脱出してジャングルに迷い込んでからひろしとみさえは喧嘩をする。ひろしは「そもそもお前がふくびきで当てなければ」と愚痴り、それにみさえは「なによ!」と反発をする。
電車の中でしんのすけを奪われた後のひろしとみさえも「そもそもお前がふくびきで...」「なによ!」と口論をしているのである。
さらにひろしは「しんのすけがさらわれたのは(結果論だけど)みさえのせいだ」と言っている。
そして忘れてはいけないが、ブリブリ王国の秘宝ではひろしに責められたみさえは涙を流し、それに対してひろしは「泣けばいいってもんじゃないだろ」と結構辛辣なことを言い返している(照れ隠しではあるが)。
さらに別の映画、みんな大好き『クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』ではしんちゃんがトッペマの誘いを断った後の日常シーンで「しんのすけったらまた私の口紅でいたずらしたのよ。あなたからも言ってやってよ」とみさえがひろしに言うシーンがある。このシーンではひろしはテレビを見ながら晩酌をしてみさえの話を全然聞いてない。
これだって観ようによっては不快なシーンだと思う。
そもそも野原家は理想の家庭なんかじゃなかった。
野原家は1990年代特有の一般的な家庭だった。
一人っ子の息子。旦那が働きに出て、嫁さんは家で主婦。
ワイドショーを見たり、昼寝をして家事をさぼってしまうことのあるだらけた主婦。
ひろしは接待ゴルフでいきなり家族との約束をふいにしてしまうことだってあるし、接待でお姉ちゃんと飲める店に言ってみさえを怒らせてしまうし。
休日はしんのすけに遊ぼうとせがまれても「寝かせてくれ」「たまの休日くらいゆっくり休ませてくれ」と言い訳し、みさえに「たまには子どもの面倒見てよ」と叱られる。
ひろしが休日にやることと言えば自家用車の掃除くらい。
それがクレヨンしんちゃんで描かれている家族像だった。
そしてそれは90年代当時どこの家にも通じる姿だった。
周防正行監督の『Shall we ダンス?』でもダンスを始める前の主人公はそんなだらしのない父であり夫だったのだ。
それがオトナ帝国の逆襲やあっぱれ戦国で世間的にクレしんへの評価が高まり、『マンガ、ドラマに登場する理想のファミリーランキング!』に野原家がランクインしたり、教育の現場で野原家のファミリーモデルが使用されたり、野原ひろしの名言がNAVERにまとめられたりした辺りから野原家へのハードルががっつりと上がったのである。
だから、「野原家=理想の家庭」とインプットされた人達には金矛の勇者の野原家が不快に見えるかもしれないが、それは間違い。
そもそも野原家は理想の家族でもなんでもなかった。
だからこそ、観客は「手が届きそうな家族像」として野原家に魅力を感じていたのである。
また、みさえがひまわりの言葉をいちいち訳す問題について。
これは私も金矛の勇者を見ていて「さすがにくどくない...」と思ったが、この演出自体はクレしんらしさをなんら失っていない。
クレしんの登場人物が観客や読者に向かっていきなり説明口調、つまりメタ的な話をしてくるのは原作マンガではありがちな展開だ。
要は「説明しよう!...」と同じ理屈である。
観客側と作品側を繋ぐ演出なのだ。
そしてこの演出を多用しても許されるアニメはそう多くない。
つまりクレしんらしさ全開の演出なのである。
で、本題。
この金矛の勇者にあるクレしん映画らしさについて。
それは以下の3点。
-
しんちゃんの普段のおふざけが効かない大人
-
一見優しいけど根っこの部分では信用できない大人
-
大人が見てないところで冒険して(実は)成長しているしんちゃん
1について。
普段は狂人ともいえる言動で大人や同級生を翻弄する5才児野原しんのすけ。我々観客や読者はその一連の流れを見て爆笑するのである。
しかしそのしんのすけの言動が一切通用しない相手が現れたら...。
しんのすけの「ぶりぶりー」に無表情な大人が現れたら...。
しんのすけを言い負かす大人が現れたら...。
これらの大人が現れたらしんちゃんは困ってしまうし、我々観客も困ってしまう。
劇場版2作目のブリブリ王国の秘宝ではアナコンダ伯爵とミスターハブはしんちゃんの「ぶりぶりー」や「ぞーさん、ぞーさん」が一切通用しなかった。全くの無表情。
いつもの大人みたいに困ったり怒ったりしてこない。そんな敵を見てしんちゃんは焦ってしまう。
劇場版5作目の暗黒タマタマ大追跡ではヘクソンがその敵役を見事やってのけた。しんちゃんの新技「チンコプター」を見ても全く動じないのだ。
劇場版6作目のブタのヒヅメ大作戦では敵の大ボスであるマウスがしんちゃんを怖がらせている。
こんな風にしんちゃんの映画ではしんちゃんの狂人っぷりが通用しない相手が出てくる。
我々観客はそれらしんちゃんの言動が通用しない相手を見て、「こいつ、ただものではない...」と恐れ、敵と認識するのだ。
本作金矛の勇者でもアセ・ダク・ダークはそのように描かれていた。
しんちゃんはお尻を出そうとして、しばらく悩んだ後お尻をしまってダークから逃げるのだ。
「ぶりぶりー」のくだりは描かれてないが、あのシーンはまさにそういうことだろう。
2について。
劇場版クレヨンしんちゃんでは信用できない大人をほんとによく描けているな―と思う。
私も大人になって様々な大人に接してきたが、世の中にはほんとに信用できない、悪い大人がいるものである(笑)。
一見礼儀正しいけど、根っこの部分は信用できない大人。
劇場版4作目のヘンダーランド。これに出てくるス・ノーマン・パーはほんとにトラウマものの敵である。
口がうまく、愛想がよく、言葉巧みに人を騙していつのまにか標的を孤独に追いやっている。
劇場版1作目のハイグレ魔王はしんちゃんを(一見)お姉さんと思わせて油断させている。
劇場版3作目の雲黒斎のあの親しみやすい感じ。子供相手にも名刺を渡してくる妙に礼儀正しい感じ。
劇場版5作目の暗黒タマタマの玉王ナカムレの間違ったこと言ってないし、社会常識ある感じなんだけど平気で人を利用し裏切る性根の腐った感じ。
本作金矛の勇者のマックやプリリンの礼儀正しいし親しみやすいところあるんだけどなんか怪しいよね〜という感じ。
まさにクレしん映画特有の適役だと思う。
3について。
もうこれはクレしん映画、というかドラえもん映画とかズッコケ三人組でもおなじみの要素だと思う。
大人のいないところで子どもは密かに冒険をしていて、成長している。でも大人はそれに気づかないし、気づけない。
我々日本人が大好きな要素ではないか。
最近でこそ野原家が一致団結してしんちゃんと冒険して敵を倒す展開が目立つが初期はそうでもなかった。
劇場版1作目ではハイグレ魔王の幹部を倒し、アクション仮面と共闘してハイグレ魔王を倒したのは野原家でもしんちゃんだけだ(シロは一応いたけど)。
劇場版2作目でも誘拐された後しんちゃんはスンちゃんと出会い物語の核心に迫っていく。その間ひろしとみさえはルルと行動を共にしているから、スンちゃんを慰めたりしているしんちゃんの頼もしい姿をひろしもみさえも目撃していないのだ。
劇場版3作目と4作目ではひろしとみさえは人ならざるものに変えられてしまったのでしんちゃんの成長過程を目撃していない。ヘンダーランドでチョキリーヌを倒した後に少し成長したしんちゃんの姿をひろしが目撃していただけだ。
劇場版5作目では野原家が一致団結した感があるが、ひまわりを誘拐されまいとしんちゃんが一人でヘクソンに挑む所はひろしもみさえも見ていない。
劇場版6作目でもしんちゃんがぶりぶりざえもんを説得している一連の過程をひろしもみさえも見ていない。最後のぶりぶりざえもんが飛行船を持ち上げる姿はしんちゃんしか気づいておらず、ここでもしんちゃんは大人が知らないところで真実に気づき成長している。
たぶんしんちゃんが明確に成長する過程をひろしとみさえ、また同級生を含めた周りの人間が認識したのはあの超有名なオトナ帝国の逆襲......ではなく劇場版8作目『嵐を呼ぶジャングル』だと思われる。
あの映画ではしんちゃんが大人達を助け、ケツだけ歩きを教え、島から脱出した。さらに最後のアクション仮面と協力してアフロとの空中戦を戦い抜く姿を客船に乗っている皆が目撃し、そしてそして最後に「褒められちゃったー」というしんちゃんに「褒めてやるか」とひろしとみさえは明確に答えている。
この次の映画がオトナ帝国でその次がアッパレ戦国となる。
そんなわけで初期のクレヨンしんちゃん映画はしんちゃんの成長過程を大人達は気づいていなかった。
全ての冒険が終わった後、しんちゃんは日常生活に戻り、またいつもの生活が始まる。
しんちゃんの冒険を知っているのはしんちゃん本人と冒険に関わった人達だけ。それは観客である我々も例外ではない。我々観客もしんちゃんの冒険譚を知る目撃者の一人ひとりであり、特別な存在だった。
本作金矛の勇者でも物語のクライマックス、野原一家はお約束どおり一致団結してダークを倒す。...と思いきや実はダークは生きていて、ひろしやみさえ達が時間を止められた後にしんちゃんが一人闘いダークを倒す。
ひろし達は時間を止められていたので、しんちゃんが一人活躍して世界を救ったことに気づいてすらいない。
この展開まさに初期のクレしん映画にある要素。
というか、正統派ジュブナイル物に必ず含まれる要素。
もうこの要素が含まれているだけで「本郷監督、さすがだな!!」と唸ってしまうというものだ。
もちろん本作金矛の勇者、粗はある。
ミュージカルシーンで物語が止まってしまうとか、メタ要素を含めすぎたせいで長ったらしく感じてしまうとか、最大の魅力である金の矛と銀の盾が物語のクライマックスまで(観客に)忘れさられているとか。
せっかく堀江由衣さんを起用したのにマタの出番が少ないとか。
三宅隆太監督の蟹と修造理論で言えば、マタを物語序盤に出しておけば観客はもっとマタに感情移入できたのにと思う。
なにせマタより先に敵を出してしまったせいで、敵と味方のバランスがよくわからないことになっている。それ故に物語中盤にしんちゃんがプリリンに騙されてマタを責めてしまうシーンの緊張感がなくなってしまった。
いっそのことしんちゃんとマタが金の矛と銀の盾を探すロードムービー的というかRPG的なストーリーの方が良かったのではないかと思ってしまう。
が、そんな重箱の隅を突き始めたらキリがない。
世間では金矛の勇者を見た観客の「本郷監督どうした?」とか「なぜこうなった」という意見があるようだ。
中には劣化版ヘンダーランドという評価もあるが、いや、それは仕方ないだろう。
だって本郷みつるさんがTwitterで言っているように、ヘンダーランドは集大成的な意気込みで取り組んだ作品なのだ(事実ひまわりが生まれる前の最後の作品)。
しんちゃん映画は3本やってクタクタになったのだけど、3作目がややバランスを欠いていた反省があり、最後だと思って臨んだ集大成がヘンダーでした。全体の構成はクライヴ・パーカーの小説『ウィーヴワールド』に着想を得ていますが、内容は似ていません。
— 本郷みつる/Hongo Mitsuru (@megatenhongo) 2018年4月19日
色々挑戦できた時代だろうし、そりゃあヘンダーランド面白くなると思う。
それがオトナ帝国、アッパレ戦国以降「クレしん映画といえば」という良くも悪くも世間の評価が固まってしまった後、表現に対する規制が変わりアニメや映画でできることに制限がかかった時代によくぞ金矛の勇者を作ったと思う。
食わず嫌いはもったいない。金矛の勇者、普通に面白いです!
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