酷評されてる『クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者』を観てみた。いや、普通に面白いよこれ! 観たほうが良いよ!!
最近Netflixでクレヨンしんちゃん映画が観れるようになったので、
今まで観てない映画を片っ端から観てみた。
私の好きな堀江由衣さんが出演しているので気にはなっていたのだが、あらゆるところで酷評されているので嫌厭していた『クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者』。
このまま観ないのももったいないので、勇気を出して観てみた。
本郷監督だし、好きな声優さんが結構出てるし「面白くなかったらどうしよう...」と心配だったのだが、観終わってみると「え、ふつうに面白いじゃん!」と唸ってしまった。
ところどころ粗はあるかもしれないが、ネットで酷評されるほどのことはないよなーと思うのだ。
むしろ、本作、かなりクレヨンしんちゃん映画のクレヨンしんちゃん映画らしさがちゃんとあるなあと思う。
この記事では金矛の勇者のクレヨンしんちゃん映画らしさについて書こうと思う。
そのクレヨンしんちゃん映画らしさを語る前にネットに書かれている酷評に対して私なりのアンサーをしていきます。
>>敵に襲われた翌日のしんのすけの話が、「どうせ嘘だろ」「夢だろ」と辛辣に聞き流されてしまうのが不快。
これに関して言えば、私は寧ろ原作の雰囲気に忠実だと思った。
なぜなら原作漫画、特に初期の原作漫画ではしんのすけはほんとに奇っ怪な迷惑でうるさい5才児扱いなので、周りの大人や幼稚園の同級生はしんちゃんをほんとに迷惑な存在として扱うのである。
それは劇場版1作目『クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王』の夏休みに突入するのを心底嫌がるみさえのシーンでも描かれている。
>>ひろしとみさえが喧嘩するシーンが不快。みさえがひまわりの言うことをいちいち訳すのがおかしい。
これもたしかに最近のクレしん映画としては珍しいかもしれないが、寧ろ昔のクレヨンしんちゃんに忠実な印象を受ける。
ひろしとみさえはしょっちゅう喧嘩するのである。子育てのことで喧嘩して、ひろしが他の女の子にデレデレすることに対して喧嘩して、ひろしの給料のことで喧嘩して。これは原作漫画ではよくある展開だし、過去の映画でもよくある展開である。
例えば『クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝』では飛行機から脱出してジャングルに迷い込んでからひろしとみさえは喧嘩をする。ひろしは「そもそもお前がふくびきで当てなければ」と愚痴り、それにみさえは「なによ!」と反発をする。
電車の中でしんのすけを奪われた後のひろしとみさえも「そもそもお前がふくびきで...」「なによ!」と口論をしているのである。
さらにひろしは「しんのすけがさらわれたのは(結果論だけど)みさえのせいだ」と言っている。
そして忘れてはいけないが、ブリブリ王国の秘宝ではひろしに責められたみさえは涙を流し、それに対してひろしは「泣けばいいってもんじゃないだろ」と結構辛辣なことを言い返している(照れ隠しではあるが)。
さらに別の映画、みんな大好き『クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』ではしんちゃんがトッペマの誘いを断った後の日常シーンで「しんのすけったらまた私の口紅でいたずらしたのよ。あなたからも言ってやってよ」とみさえがひろしに言うシーンがある。このシーンではひろしはテレビを見ながら晩酌をしてみさえの話を全然聞いてない。
これだって観ようによっては不快なシーンだと思う。
そもそも野原家は理想の家庭なんかじゃなかった。
野原家は1990年代特有の一般的な家庭だった。
一人っ子の息子。旦那が働きに出て、嫁さんは家で主婦。
ワイドショーを見たり、昼寝をして家事をさぼってしまうことのあるだらけた主婦。
ひろしは接待ゴルフでいきなり家族との約束をふいにしてしまうことだってあるし、接待でお姉ちゃんと飲める店に言ってみさえを怒らせてしまうし。
休日はしんのすけに遊ぼうとせがまれても「寝かせてくれ」「たまの休日くらいゆっくり休ませてくれ」と言い訳し、みさえに「たまには子どもの面倒見てよ」と叱られる。
ひろしが休日にやることと言えば自家用車の掃除くらい。
それがクレヨンしんちゃんで描かれている家族像だった。
そしてそれは90年代当時どこの家にも通じる姿だった。
周防正行監督の『Shall we ダンス?』でもダンスを始める前の主人公はそんなだらしのない父であり夫だったのだ。
それがオトナ帝国の逆襲やあっぱれ戦国で世間的にクレしんへの評価が高まり、『マンガ、ドラマに登場する理想のファミリーランキング!』に野原家がランクインしたり、教育の現場で野原家のファミリーモデルが使用されたり、野原ひろしの名言がNAVERにまとめられたりした辺りから野原家へのハードルががっつりと上がったのである。
だから、「野原家=理想の家庭」とインプットされた人達には金矛の勇者の野原家が不快に見えるかもしれないが、それは間違い。
そもそも野原家は理想の家族でもなんでもなかった。
だからこそ、観客は「手が届きそうな家族像」として野原家に魅力を感じていたのである。
また、みさえがひまわりの言葉をいちいち訳す問題について。
これは私も金矛の勇者を見ていて「さすがにくどくない...」と思ったが、この演出自体はクレしんらしさをなんら失っていない。
クレしんの登場人物が観客や読者に向かっていきなり説明口調、つまりメタ的な話をしてくるのは原作マンガではありがちな展開だ。
要は「説明しよう!...」と同じ理屈である。
観客側と作品側を繋ぐ演出なのだ。
そしてこの演出を多用しても許されるアニメはそう多くない。
つまりクレしんらしさ全開の演出なのである。
で、本題。
この金矛の勇者にあるクレしん映画らしさについて。
それは以下の3点。
-
しんちゃんの普段のおふざけが効かない大人
-
一見優しいけど根っこの部分では信用できない大人
-
大人が見てないところで冒険して(実は)成長しているしんちゃん
1について。
普段は狂人ともいえる言動で大人や同級生を翻弄する5才児野原しんのすけ。我々観客や読者はその一連の流れを見て爆笑するのである。
しかしそのしんのすけの言動が一切通用しない相手が現れたら...。
しんのすけの「ぶりぶりー」に無表情な大人が現れたら...。
しんのすけを言い負かす大人が現れたら...。
これらの大人が現れたらしんちゃんは困ってしまうし、我々観客も困ってしまう。
劇場版2作目のブリブリ王国の秘宝ではアナコンダ伯爵とミスターハブはしんちゃんの「ぶりぶりー」や「ぞーさん、ぞーさん」が一切通用しなかった。全くの無表情。
いつもの大人みたいに困ったり怒ったりしてこない。そんな敵を見てしんちゃんは焦ってしまう。
劇場版5作目の暗黒タマタマ大追跡ではヘクソンがその敵役を見事やってのけた。しんちゃんの新技「チンコプター」を見ても全く動じないのだ。
劇場版6作目のブタのヒヅメ大作戦では敵の大ボスであるマウスがしんちゃんを怖がらせている。
こんな風にしんちゃんの映画ではしんちゃんの狂人っぷりが通用しない相手が出てくる。
我々観客はそれらしんちゃんの言動が通用しない相手を見て、「こいつ、ただものではない...」と恐れ、敵と認識するのだ。
本作金矛の勇者でもアセ・ダク・ダークはそのように描かれていた。
しんちゃんはお尻を出そうとして、しばらく悩んだ後お尻をしまってダークから逃げるのだ。
「ぶりぶりー」のくだりは描かれてないが、あのシーンはまさにそういうことだろう。
2について。
劇場版クレヨンしんちゃんでは信用できない大人をほんとによく描けているな―と思う。
私も大人になって様々な大人に接してきたが、世の中にはほんとに信用できない、悪い大人がいるものである(笑)。
一見礼儀正しいけど、根っこの部分は信用できない大人。
劇場版4作目のヘンダーランド。これに出てくるス・ノーマン・パーはほんとにトラウマものの敵である。
口がうまく、愛想がよく、言葉巧みに人を騙していつのまにか標的を孤独に追いやっている。
劇場版1作目のハイグレ魔王はしんちゃんを(一見)お姉さんと思わせて油断させている。
劇場版3作目の雲黒斎のあの親しみやすい感じ。子供相手にも名刺を渡してくる妙に礼儀正しい感じ。
劇場版5作目の暗黒タマタマの玉王ナカムレの間違ったこと言ってないし、社会常識ある感じなんだけど平気で人を利用し裏切る性根の腐った感じ。
本作金矛の勇者のマックやプリリンの礼儀正しいし親しみやすいところあるんだけどなんか怪しいよね〜という感じ。
まさにクレしん映画特有の適役だと思う。
3について。
もうこれはクレしん映画、というかドラえもん映画とかズッコケ三人組でもおなじみの要素だと思う。
大人のいないところで子どもは密かに冒険をしていて、成長している。でも大人はそれに気づかないし、気づけない。
我々日本人が大好きな要素ではないか。
最近でこそ野原家が一致団結してしんちゃんと冒険して敵を倒す展開が目立つが初期はそうでもなかった。
劇場版1作目ではハイグレ魔王の幹部を倒し、アクション仮面と共闘してハイグレ魔王を倒したのは野原家でもしんちゃんだけだ(シロは一応いたけど)。
劇場版2作目でも誘拐された後しんちゃんはスンちゃんと出会い物語の核心に迫っていく。その間ひろしとみさえはルルと行動を共にしているから、スンちゃんを慰めたりしているしんちゃんの頼もしい姿をひろしもみさえも目撃していないのだ。
劇場版3作目と4作目ではひろしとみさえは人ならざるものに変えられてしまったのでしんちゃんの成長過程を目撃していない。ヘンダーランドでチョキリーヌを倒した後に少し成長したしんちゃんの姿をひろしが目撃していただけだ。
劇場版5作目では野原家が一致団結した感があるが、ひまわりを誘拐されまいとしんちゃんが一人でヘクソンに挑む所はひろしもみさえも見ていない。
劇場版6作目でもしんちゃんがぶりぶりざえもんを説得している一連の過程をひろしもみさえも見ていない。最後のぶりぶりざえもんが飛行船を持ち上げる姿はしんちゃんしか気づいておらず、ここでもしんちゃんは大人が知らないところで真実に気づき成長している。
たぶんしんちゃんが明確に成長する過程をひろしとみさえ、また同級生を含めた周りの人間が認識したのはあの超有名なオトナ帝国の逆襲......ではなく劇場版8作目『嵐を呼ぶジャングル』だと思われる。
あの映画ではしんちゃんが大人達を助け、ケツだけ歩きを教え、島から脱出した。さらに最後のアクション仮面と協力してアフロとの空中戦を戦い抜く姿を客船に乗っている皆が目撃し、そしてそして最後に「褒められちゃったー」というしんちゃんに「褒めてやるか」とひろしとみさえは明確に答えている。
この次の映画がオトナ帝国でその次がアッパレ戦国となる。
そんなわけで初期のクレヨンしんちゃん映画はしんちゃんの成長過程を大人達は気づいていなかった。
全ての冒険が終わった後、しんちゃんは日常生活に戻り、またいつもの生活が始まる。
しんちゃんの冒険を知っているのはしんちゃん本人と冒険に関わった人達だけ。それは観客である我々も例外ではない。我々観客もしんちゃんの冒険譚を知る目撃者の一人ひとりであり、特別な存在だった。
本作金矛の勇者でも物語のクライマックス、野原一家はお約束どおり一致団結してダークを倒す。...と思いきや実はダークは生きていて、ひろしやみさえ達が時間を止められた後にしんちゃんが一人闘いダークを倒す。
ひろし達は時間を止められていたので、しんちゃんが一人活躍して世界を救ったことに気づいてすらいない。
この展開まさに初期のクレしん映画にある要素。
というか、正統派ジュブナイル物に必ず含まれる要素。
もうこの要素が含まれているだけで「本郷監督、さすがだな!!」と唸ってしまうというものだ。
もちろん本作金矛の勇者、粗はある。
ミュージカルシーンで物語が止まってしまうとか、メタ要素を含めすぎたせいで長ったらしく感じてしまうとか、最大の魅力である金の矛と銀の盾が物語のクライマックスまで(観客に)忘れさられているとか。
せっかく堀江由衣さんを起用したのにマタの出番が少ないとか。
三宅隆太監督の蟹と修造理論で言えば、マタを物語序盤に出しておけば観客はもっとマタに感情移入できたのにと思う。
なにせマタより先に敵を出してしまったせいで、敵と味方のバランスがよくわからないことになっている。それ故に物語中盤にしんちゃんがプリリンに騙されてマタを責めてしまうシーンの緊張感がなくなってしまった。
いっそのことしんちゃんとマタが金の矛と銀の盾を探すロードムービー的というかRPG的なストーリーの方が良かったのではないかと思ってしまう。
が、そんな重箱の隅を突き始めたらキリがない。
世間では金矛の勇者を見た観客の「本郷監督どうした?」とか「なぜこうなった」という意見があるようだ。
中には劣化版ヘンダーランドという評価もあるが、いや、それは仕方ないだろう。
だって本郷みつるさんがTwitterで言っているように、ヘンダーランドは集大成的な意気込みで取り組んだ作品なのだ(事実ひまわりが生まれる前の最後の作品)。
しんちゃん映画は3本やってクタクタになったのだけど、3作目がややバランスを欠いていた反省があり、最後だと思って臨んだ集大成がヘンダーでした。全体の構成はクライヴ・パーカーの小説『ウィーヴワールド』に着想を得ていますが、内容は似ていません。
— 本郷みつる/Hongo Mitsuru (@megatenhongo) 2018年4月19日
色々挑戦できた時代だろうし、そりゃあヘンダーランド面白くなると思う。
それがオトナ帝国、アッパレ戦国以降「クレしん映画といえば」という良くも悪くも世間の評価が固まってしまった後、表現に対する規制が変わりアニメや映画でできることに制限がかかった時代によくぞ金矛の勇者を作ったと思う。
食わず嫌いはもったいない。金矛の勇者、普通に面白いです!
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ディズニー版『ノートルダムの鐘』の感想―これってそんなに名作かな? むしろ不快な駄作―
妻におすすめされて『ノートルダムの鐘』を観てみた。
このブログでわざわざ書くまでもなく、この映画はヴィクトル・ユーゴ原作の『ノートルダム・ド・パリ』をディズニーがアニメーション化したものである。
画面の美しさやストーリーと音楽の組み合わせなど様々な要素が評価されており、ディズニー映画黄金期再来と言われるほど屈指の名作に数えられている。
が、私はこの映画を見ても全然面白いと思えなかった。
この映画のストーリー上最も伝えたい事は映画のラスト、カジモドがエスメラルダに手を引っ張ってもらって大聖堂の外の世界へ踏み出し、外の世界に迎え入れられた点であると言える。
本来ならば物語上最もテンションが上がるシーンであるが、私は全然盛り上がれなかった。むしろ不快感すらあった。
この映画最大の汚点は、カジモドを特別(過ぎる)人間にしたことである。
このカジモドという男は赤ん坊の頃に井戸に捨てられるはずだったところを司祭によって助けられる。
つまり神によって助けられるのである。
そして、フロローによって軟禁され、鐘衝きとして育てられる。
カジモドは醜い容姿として生まれ育ち……というストーリーなのだが、アニメの弊害か、そんなに醜い容姿ではないのだ。
これがゲゲゲの鬼太郎くらい怖い容姿ならわかるが、ディズニーのアニメはいかんせん醜く見えない。
カジモドはフロローの言いつけどおり外の世界には出ず、毎日鐘楼から町を見下ろすだけの生活をする。
そんなカジモドが自分の願望をミュージカルで表現する。
そう、カジモドが『僕の願い』を歌いながら大聖堂の中をアサシンクリード並の動きで移動する。
私は、そのシーンを見た時に度肝を抜かれた。
「あれ、軟禁されてなくない?」
これが私の感想なのである。
人間というのは必ず反抗期みたいなものがある。カジモドは13歳の時とか17歳の時とかにこのアサシンクリードな技能を使って外の世界に飛び出したことはないのだろうか?
しかもこのシーン、町の描写が美しすぎるのだ。細部のディテールまで拘って描かれているので町が全然遠い世界に見えない。
『塔の上のラプンツェル』は良かった。
ラプンツェルが軟禁されている塔は本当に人の世界から隔絶された森の中に建てられていて、例えこの塔を一人で抜け出た所でどこに行っていいのかわからない途方にくれる感じがある。
さらにラプンツェルの育ての親ゴーテルはラプンツェルを閉じ込めるために嘘をついて育てるのだが、その嘘をつく時の顔は優しい母親のようにも見えて、ほんとうにゴーテルは自分のことを思って助言してくれているんだと錯覚してしまう魅力(魔力?)がある。
対してカジモドを閉じ込めているフロローは誰が見ても酷い奴だ。
これはフロローの設定のせいだと思える。
ディズニーの悪役にしては珍しく、フロローは自分の行いが正義だと信じている。
そのため、フロローは自分の本性を惜しげもなく周りに見せつけている。
これでは、フロローに騙されているカジモドに共感できない。
アサシンクリード並の運動神経があるならカジモドはフロローを一、二発殴ってやれば良いのだ。
『塔の上のラプンツェル』は18歳という年齢が良かった。
そりゃー、この年齢の女の子なら親の言うことばかり聞くのも嫌になるよねという説得力がある。
しかも、絵を描くスペースがなくなってきたことや自分の誕生日に空に舞い上がる「灯り」の正体を突き止めたいという明確な目的もある。
塔の外の世界を案内してくれる、盗賊(フリン aka ユージーン)という存在もある。
『塔の上のラプンツェル』は外の世界に踏み出す因果関係がちゃんと一つ一つしっかりしているのだ。
『ノートルダムの鐘』のカジモドが言いつけを守っている理由が全然理解できない。
そんな私の捻くれた疑問に対してディズニーはとんでもない設定で対抗してくる。
カジモドは醜い容姿を持ちながらも優しく純粋な青年。
うん、そんなわけねえだろ!
いや、なぜそうなのか説明してくれ!!
だってカジモドは自分は母親に捨てられたと思っており、あの自分の邪悪さを隠しもしないフロローに育てられているのである。
そんなカジモドが優しく純粋な青年に育つか!!!?
これも、この作品がカジモドを特別視している点である。
カジモドはある日思い切って大聖堂から抜け出し、道化の祭りに参加する。
カジモドはそこでエスメラルダに出会う。エスメラルダは人々にいじめられるカジモドをかばった……ということになっているが、どう見ても最初にかばったのはクロパンだろう!!
クロパンが「今日は町で一番の醜男を決める日だ!」と叫んで、街中の人はカジモドを盛り上げる。
はっきり言って、町の人に盛り上げられるシーンも不快である。
ここでカジモドが祭り上げられるのは、この日があべこべの日だから祭り上げられているのであって、それはつまりカジモドは結局醜い男ということだろう。
カジモドはその後衛兵に野菜や果物を投げられて汚される。
町の人々はそんなカジモドを見て面白がり、衛兵のいじめに加担する。
ここもとっても不快。
普通に、この町の人達ってすっげー嫌な奴じゃん。
そこにエスメラルダが颯爽とやってきて、『フライト・ゲーム』のリーアム・ニーソンばりに演説をして町の人達を説得し、さもいじめを止めなかったフロローが悪いみたいな空気にしている。
でも、悪い奴らってフロローじゃないよね?
少なくともフロロー一人ではない。
というか、なぜエスメラルダがカジモドに優しくしているのかがわからない。
エスメラルダは大聖堂で「虐げられた者も 皆 神の子」という趣旨の歌『ゴッド・ヘルプ』を歌う。
つまり人類皆平等ということである。
この辺りは見ていて「うん、そうだ。そうだ」と思うのだが、カジモドの親友である石像達は『ガイ・ライク・ユー』の中で、カジモドは「他の男とは違う 君は特別な男」という趣旨の歌を唄う。
いやいや、だからさ、それっておかしくない?と思うのだ。
カジモドは自分の特別な境遇と容姿を嫌っているのだろう。
皆と同じような暮らしをしたいと思っているのだろう。
そんな男に「君は特別な男」なんて言って勇気づけになると思う??
カジモドはエスメラルダが本当に恋をしているのはフィーバスだと知って落ち込む。
この下りも私は全然共感できない。
なぜなら、観客である私はエスメラルダとフィーバスが『ローマの休日』のあの二人並に息の合ったやりとりで死線をくぐり抜けてきたことを知っているからだ。
だから、うん、そりゃエスメラルダとフィーバスは結ばれるよねと思う。
カジモドは逃れてきたフィーバスを匿うのだが、そこも納得できない。
だって、恋敵だよ。
カジモドにとっての初恋って、それこそその辺の連中の初恋より重く大切なものだよ。
それなのに、フィーバスを匿っちゃう。
あれだけ言いつけを守ってきたカジモドなのに、ここではフロローを裏切って、恋敵であり出会って間もない相手のフィーバスを優先してしまう。
納得できない。
でもこれもディズニーさんは「カジモドは優しく純粋な青年だから」で片付けちゃうのでしょう。
物語のクライマックス、カジモドとフロローは一騎打ちをする。
フロローはそこで母親のことをカジモドに打ち明ける。
カジモドは驚く。
でも、観客は驚かない。
なぜなら観客はずっと前に知っていたから。
てか、カジモドの母親もジプシーでエスメラルダもジプシーなんだから、そこもっと盛り上げられんかったん?という疑問の方が浮かぶ。
カジモドを追い詰めたと思ったフロローだったが、ついに神の逆鱗に触れて死亡する。
なぜ??
フロローはカジモドを拾ってから20年の間も数々の悪事を働いていただろう。
ていうか、カジモドと会う前から悪いことしてただろう。
それならばここで神がついに怒る理由がわからない。
この映画の最初の約束に反したから、という理由かもしれないが、結局それってカジモドを特別扱いしているということである。
この辺の下りも心底不快である。
ここは石像達ユーゴ、ヴィクトル、ラヴァーンがジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウ並に息の合った動きでカジモドを援護して、カジモドがちゃんとフロローと決着をつける。
カジモドがアサシンクリードな体術でフロローに一撃を食らわすが、カジモドは心が優しいのでトドメはささない。
カジモドとエスメラルダはその場を去ろうとするが、フロローは尚もエゴイストを発揮してカジモドを殺そうとする、そこに神の怒りが発動する。
てな流れにしないと。
映画のラスト、エスメラルダに手を引っ張られてカジモドは外の世界に足を踏み出す。
ただし、ここのカメラワークが気に食わない。
エスメラルダは子どもを覗き込むかのように上からカジモドに手を差し出す。
なんじゃそら。
カジモドは20歳だぞ!!
カジモドは恐る恐る大聖堂の外へ出る。
でも、観客はとっくの昔にカジモドがアサシンクリード並の動きで道化の祭りに参加するため外の世界に出たのを見ているので特に感動はない。
幼い女の子が近づいてきて、カジモドの顔に手を添える。
この演出も不快。
この映画の中でカジモドの容姿について触れられたのは道化の祭りの時だけである。
その後は終始、フロローのエゴイズムを物語の加速剤にして恋物語が展開されていたので、ラストのこの女の子の行動が取ってつけたように見える。
女の子に手を引っ張られてカジモドは町の人達の中へ歩を進め、迎え入れられる……となっているがそれも意味不明。
フロロー達権力側と闘っていたのはジプシーだろう。
だからジプシーがカジモドを受け入れるのはわかるが、町の人達が受け入れる理由はよくわからん。
っていうか、この町の人達は道化の祭りでカジモドを祭り上げたかと思いきや衛兵がいじめを始めたら手のひらを返してそれに加担したやつらだろう。
そんな連中を信じられる??
そんな連中とこれから幸せに暮らしていける?
うーん、無理だと思うね。
そもそもこの町の人達とフロロー側との距離感がつかめない。
カジモドがアベンジャーズな力で鎖を引きちぎり、アサシンクリードな動きでエスメラルダを救い出し、大聖堂のステンドグラスの前でエスメラルダを抱えて町の皆が蜂起する下りも全然共感できない。
エスメラルダってそんなに自由と平等の象徴だったっけ?
この町の人達ってフロローのせいで生活を制限されてたっけ?
フロローが地下牢で拷問をしているシーンはあるけど、道化の祭りだって別に規制されていなかったし、なんならフロローも祭りを見に来てたよね?
だったら、町の人の暮らしってそんなに抑制されてないのでは?
少なくとも表向きは権力によって抑圧されてない気がする。
だから、フロローを倒したカジモドを迎え入れる町の人達の描写が薄っぺらく感じてしまうのだ。
そして、私がこの映画で最も解せない。心底不快で仕方ないのが石像達である。
彼らはカジモド(とジャリ)の前でしかキャラクター化しない。
これって、結局カジモドが特別だっていいたいのでしょう?
それってなー。
カジモドって特別だから虐げられているんだよね?
だから、映画では石像のキャラクター達が実は他の人にも認知される下りを入れて、カジモドは特別だと思っていたけど、それって普通の人にも認知できる”特別”だったんだ。
つまり、カジモドの”特別”は特別じゃないんだ!!
っていう話にしないと結局カジモドは他の人と違うという認識から抜け出せないのではないかしら。
こんだけカジモドは特別だ!!と劇中で描いておきながら、エスメラルダはフィーバスを選ぶ。
金髪イケメンの”普通”の人を選ぶ。
いったいどこにカタルシスがあるん??
そんなわけでこの映画の終始「カジモドは特別」な感じが受け付けなかった。
テーマがテーマだけにそれって結局「障害者は特別」「虐げられている人は特別」という感じが拭えない。
1996年公開とはいえ、今時外に出る=ハッピーエンドというのも……。
虐げられる人は、外に出られても容姿や境遇でバカにされるから、外に出ないんでしょう。
そこに対するアンサーになっていない。
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やたらと恋愛描写を入れたがる邦画は『ドルフ・ラングレン 処刑鮫』を見習うべき―物語の軸がぶれないということ―
まあタイトルからしてわかる通りB級映画である。
つまり、多くの男子の大好物である。
湖に鮫が現れてどうなるこうなるというストーリーだけでもわくわくするのに、ドルフ・ラングレンが出演するとなれば観ないわけにはいかない。
肝心の映画の出来は予想通り。
そもそも制作費が200万ドルなので(ジョーズは700万ドル)、キャストが偉く少なく、サメのCGも素材を買ってきたのかな?と思わせるチープな出来である。
銃を発砲した時のマズルフラッシュも合成した感満載である。
もちろんこれら全てを含めて素晴らしい。
これぞB級映画である。
で、この映画の素晴らしい点、ほんとに手を叩いて賞賛しないといけない点がある。
それは物語の目的が一貫していることである。
登場人物達はただ一つの目的に向かって動いている。
そう、サメを退治(捕獲)すること。
町の保安官もサメ番組の人も学者もマフィアもドルフ・ラングレンも目的はサメを捕獲もしくは退治することだ。
そこは映画の最初から最後まで一切ぶれない。
途中マフィアが娘をネタにドルフ・ラングレンを脅迫する展開が入り、ドルフ・ラングレンは嫌々ながらもマフィアに協力せざるを得なくなるが、その展開でさえサメ捕獲の物語を加速させる。
ああ、素晴らしい。
物語の軸がぶれないとはほんとに映画を作る上で最低限のマナーである。
いや、当たり前だろと思うかもしれないが、物語の軸がブレる映画はよくあるのだ。
例えば、2006年版の『日本沈没』、2009年の『感染列島』。
私はこれらの映画がほんとに嫌いなのである。
今まで当たり前だった日常が目の前で崩壊していってるのに主人公とヒロインのどうでもいい恋愛話が進行する不愉快さ。
恋愛話が挿入された途端に緊張感が薄れる。
なぜなら映画の中で起きている解決しなければいけない問題と登場人物の恋愛は全く別の軸だからである。
恋愛を描きたいならきちんと恋愛に軸を置かなければならない。
災害で崩壊する中での人間模様に軸を置きたいならきちんとそっちに軸を置かなければならない。
被災地に何度も行った人間として断言するが、日常が壊れていく中で人は悠長に恋愛など出来ないのである。
1000歩譲って『日本沈没』と『感染列島』が東日本大震災前に出来た映画だとしても、阪神淡路大震災の後の映画だろう。
はっきり言って両者は浅はかな映画である。
それに引き換え『ドルフ・ラングレン 処刑鮫』は良い映画だった。
やたらと恋愛描写を入れて物語の軸をぶらぶらさせる日本の監督はこの映画を見てストーリーテリングを学ぶべきだ。
【ポケスペ】なぜ小学生だった私はポケットモンスターSPECIALの世界に惚れたのか
先日は真斗さんの描くポケスペの絵について語ったので、今回はポケスペの世界観について語ろうと思う。
また、例のごとくこのブログはポケスペの作画交代を批判したり、真斗さんの復活を希望したり、今のポケスペより昔のポケスペの方が良かったと主張するものではないことをここに明記する。
私がポケスペの第1巻を買ったのは、忘れもしない、広島の福屋の向かえにあるフタバ図書八丁堀店である。
当時フタバ図書の2階がまるまる漫画コーナーになっており、そこでポケスペに出会った。(店内には、ポケスペのPOPも展示されていた。)
当時の私はまだ小学○年生という雑誌を知らなかったので、ポケスペの中身も知らないで購入したことになる。
だが、それは別に珍しいことではなく、あの頃ポケモンにハマっていた小学生はポケモンと名のつくマンガは片っ端から買っていた。
ギエピーはもちろん電ピカ、四コマ劇場、インカムでピカチュウと会話するあさだみほ先生の『ポケモンゲットだぜ!』、中村里美先生の『ポケットモンスター全書』、姫野かげまる先生の『ポケモンカードになったワケ』、印照先生の『めざせ!!カードマスター』などなど。
その中でもポケスペというのはどこか特別だった。
前回の記事でも触れているが、ポケスペはポケモンの世界観を補間するのにベストなマンガだったからだ。
何度も言うが、当時はポケモンの世界に関する情報がほんとに不足していた。
ポケモンの姿は基本的にゲーム中のドット絵か取説や攻略本に描かれている絵でしかわからない。
「そりゃそうだろ!」と思われるかもしれないが、今のように動きのある絵ではない。
ゲーム中ポケモンが技を繰り出すときだって、画面がチカチカ光って「デュクシ」と音がするだけである。(個人的に好きなエフェクトははかいこうせんだった。)
ポケモンのいきいきとしたモーションをきちんと見れるようになったのは、『ポケモンスタジアム』が発売されてからだった。
また、スペックのせいもあって、ゲーム中のフィールドは(今と比べると)驚くほど狭かった。
建物はいくつか建っているけど、入れる建物はわずか。
ゲーム進行上必要な建物と人しか配置されてないフィールド。
クチバシティのサントアンヌ号がいい例かもしれない。
(そんなわけないのに)同級生とサントアンヌ号に乗って旅に出る方法をあれこれ試した。
子どもながらに「もっと広かったらもっと壮大な冒険ができるんだろうなー」と思いながらプレイしたものだ。
さて、ポケスペの単行本を買って最初の話にまず度肝を抜かれる。
「第1話 VSミュウ」。
!!!!??????
「あの幻のポケモンを第1話に!!!??? このマンガただもんではない!!!!!」
これが小学生の私の率直な感想だった。
なにせ当時のキッズ達にとってミュウはほんとに幻のポケモンで、「ミュウというポケモンがいるらしい」という噂はあるがそれがほんとなのか実在するならどうやって捕まえるのかとにかく話題だった。
そんなミュウを堂々の1話にもってくるなんてほんとにほんと、今読み返しても挑戦的だと思う。
さらに驚かされるのは主人公レッドがニョロゾを使っていること。
オーキド博士からもらう3匹でもなくピカチュウでもなく、ニョロゾを使う!!??
レッドが幼いころからずっと一緒と聞いて納得した。
ポケモンが当たり前にいる世界で、主人公がオーキド博士からもらう前にポケモンに出会っていてもなんら不思議ではない。というか、それが普通だ。
(私が、ニョロモが最初に立案されたポケモンだと知るのは後の話)。
レベルをあげて技を覚えていくというのはメタ的な要素なので、ゲームではそれが物語を加速させていくことになるが、マンガでそれを律儀に導入されると読者としてはあきてしまうのである。
もっといえば、レッドが光を当ててフシギダネがソーラービームを使うという展開が良かったのだと思う。
フシギダネが生き物っぽいからである。
こういう細かなところに、ポケモンをほんとに居る不思議な生き物と思っている子どもへの配慮が感じられた。
そしてポケスペでもっとも感動したのはポケモンの技が人間にあたること。
ゲームをしながら子どもながらに「かえんほうしゃって人間にあたったらまずいんじゃね」とか「はかいこうせんって威力どれくらいなの?」と思っていたからである。
もちろん子ども向けゲームでそんな描写があってはいけないが、子どもだからとてそういう発想にならないわけではない。
そこをポケスペは問答無用で描いてきた。
ポケモンとの闘いで命を落とすかもしれない。
ポケモンはやさしいけど、こわい生き物。
だからこそ、ポケモンと人間の共存というテーマに説得力が生まれたのだと思う。
また、ポケモンの小ネタを随所に挟んだシナリオ。
ポケモンスタンプや偽オーキド博士のことが語られることが多いが、私がやっぱり素晴らしいなと思うのはブルーの存在だと思う。
公式ガイドブックに描かれていた黒いワンピースの女の子。
それをここまで魅力的なキャラとしてマンガに描いてくれたのは、ほんとに嬉しかった。
それら各メディアで展開されている小ネタが入ることによって、ポケモンの世界がどんどん広がった。
第22話の「VSウツボット」の時に進化の儀式というシーンがあるのも趣深い。
このシーンなぞは、首藤剛志氏の構想したポケモンの世界観に通じるのではないだろうか。
いずれにせよ、今ほどゲーム機のスペックもなく、ポケモン人口も少なく、ポケモンの世界観が確立されていない時代だからできたのだと思う。
それ故に、ポケスペを通してゲームでは描かれていないポケモンの世界を想像するのが楽しかった。
ポケスペ第1章のラスト、ミュウが感慨深げに見返って去っていくシーン。あのシーンは章の終わりにふさわしい名シーンだと思う。
ポケスペpbkを買って、あらためて幼い頃にこのマンガに出会えてよかったと思う。
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【ポケスペ】なぜ小学生だった私は真斗さんの描くポケモンの世界に惚れたのか
Amazonで注文していたポケットモンスターSPECIALのペーパーバック版(pbk)が届いた。
再編・再録とはいえ、今年発売された漫画に日下先生と真斗先生の名前が並んでいるのは嬉しいものがある。
つい、ポケスペの最新刊を楽しみにしていた小学生の頃を思い出してしまった。
年甲斐もなく夜遅くまで読みながら、私は「なぜあの当時(小学生の時)こんなにも真斗さんの描くポケモンの世界に惚れたのか?」を考えた。
リアルタイムで読んでいた時は作画交代や学年誌の休刊が起こるなど知る由もなかったが、それら大人の事情を知ってしまった今、改めてなんで真斗さんの描くポケモンの世界を好きになったのかを振り返りたい。
なお、ポケスペの話題はデリケートな部分もあるためはじめに断っておくが、当記事はポケスペの作画交代を非難したり、真斗先生のポケモンの仕事への復活を希望する記事ではないことを明記する。
デフォルメされつつもディテールにこだわった絵
私が初めてポケモンを知ったのは1996年、小学生の時である。
友達が持っているのに影響されて、私も親に買ってもらった。
ほどなくして、コロコロコミックや小学○年生という雑誌も知ることになる。
ゲームをやっていてその世界観にぐんぐん引き込まれたが、同時にゲームのスペック不足などの関係で(今と比べると)フィールドは狭く、エフェクトもちゃちかったためにゲームの世界観を補足するのに苦労した。
今では信じられないが、当時ポケモンの世界観を知る手がかりはあまりに少なかった。
まともな攻略本も少なかったし、公式資料集みたいなものもなかった。ネットもなかったので、裏話や画像検索をすることもできない。
なんせ、ドット絵エビワラーを本来の姿とは別の姿と見間違える時代である。
当時ポケモン漫画の主力といえば言わずと知れたギエピーだった。
後は『ポケットモンスター四コママンガ劇場』とか『電撃!ピカチュウ』だった。
ギエピーは自由奔放過ぎるし、電ピカはアニメを基盤にしながらも作者の世界観が色濃く出ているし、四コマはゲームの世界観補正とはちょっと違う。
そんな中でポケモンの世界観と真っ向勝負したマンガがポケスペだったのである。
真斗さんの、ポケモンをデフォルメしつつもディテール(皮膚の模様や肌の質感)を妥協せず描き込んでいるのが子どもながらに共感できた。
特にレッドの手持ちポケモンであるピカ(ピカチュウ)の抱き心地の良さそうな小さくて丸っこい感じに憧れた読者は多いのではないだろうか。
この質感を丁寧に描きつつも、デフォルメされた、記号的なポケモンの描き方がゲームボーイの画面に表示されるドット絵に親しんでいた私にはとてもリアルに見えた。
このデフォルメされた絵の魅力は人物にもいえる。
(いくら子どもを描いているからといって)ちっちゃくて丸っこい感じ。
ゲームの中を動き回る主人公のドット絵を漫画絵にしたらこうだよね!という感じがした。
やさしくて、でもこわい絵
真斗さんの絵に「あたたかみのある」「やさしさをかんじる」「でも、かっこいい」と感想を述べる人はたくさんいる。
私もそう思う。
小学生の時の私も真斗さんの絵のそこに惚れた。
しかし、今こうして振り返ってみると、実はそれ以上の魅力に私(達)は気づいていたのではないかと思う。
それは、「怖い」という魅力である。
腐ったコダックや実験体にされたギャラドス、試験管の中で作られるミュウツーに暴走したミュウツーの細胞、ブルーのトラウマである風景。
その他、切断されたアーボックやサワムラーに蹴られるレッドなどなど。
真斗さんはあたたかみのある絵とは反対の、怖い絵も描かれている。
しかしこの妥協なき怖い絵に私は惚れた。
小学生だからと手を抜かれていない。ポケモン(というゲーム)だからと舐められていないところに私達は信頼を寄せることができたのである。
この優しい面もあり怖い面もあるという真斗さんの絵の魅力を語る時、レッドのセリフをそのまま引用するといいのではないか。
やさしくて、でもこわい。
いつまでも友だちでいてくれる。
真斗さんの描くマンガは、まさに私にとって友達であった。
こういうデフォルメしつつもディテールを失わず、優しさと怖さを兼ね備えた絵をかける真斗さんはおそらくものすごく世の中の事象を観察しているのだと思う。
真斗さんのホームページに掲載されている公開画を拝見すると、『羽ねこ』などはおそろしいほどディテールが細かく、羽ねこが猫のようにもドラゴンのようにも見えて完成度が高い。
『祭り絵』の徹底したこだわりと丁寧さは電柱にこだわりをみせる庵野秀明さんを彷彿とさせる。
総じて、真斗さんという方は感受性が豊かなのだろうなと思う。
感受性が豊か故にこの世の優しい部分にも怖い部分にも気づけ、描くことができる。
そうして描かれた絵はとても愛らしい(可愛らしさ・いとおしさ・可憐さ)。
日下先生がかの呟きの中で以下のようにおっしゃっている。
真斗先生との出会いを回想すると…、一番古い記憶までさかのぼるが、96年の11月~12月ごろだ。すごく不思議なことに「初めて会った日」より、「初めて彼女の絵を見た日」のほうが、鮮明に頭の中に刻み込まれている。
これには激しく同意である。
真斗さんの絵は、一度見たら忘れられない不思議な魅力がある。
信者だなんだという声を時折ネットで見つけることがあるが、信者とかではなく、やはりあの当時、リアルタイムでポケスペを楽しみにしていたファンにとって真斗さんの絵は良き友達のようなものだったのではないかと思うのだ。
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ゾンビ・アルカトラズ―酷いけどダニー・トレホとイーサン・サプリーのファンは見てもいい映画―
Netflixで『ゾンビ・アルカトラズ』という映画を見てみた。
酷い映画だった(笑)。
アルバトロスムービーになにかを求めてはいけないが、酷い。
ただし、酷い映画の中では面白い部類に入る。
だけど、酷い。
冒頭から妊婦を乗せた車がカーチェイスをするのだが、妊婦を乗っけてるのにそんなに飛ばしてええのんかいと突っ込まざるを得ない。
車は案の定スピードの出しすぎ、というか運転手が調子にノリすぎて横転。
その横転のシーンがチープなCGを使っているのでどう見てもコメディ映画のワンシーンにしか見えない。
場面は変わってアルカトラズ。
刑務所の機能をフルに使って防衛しているのだけど。
いや、あのね、アルカトラズはかつて刑務所だけだっただけで、今はただの観光地だからね?と突っ込まざるをえない。
そんなアルカトラズもあっさりゾンビに襲撃されてしまう。
それは映画が開始して8分の出来事。三宅隆太監督が話していた1幕から2幕へのベストな移行タイミングを見事に無視した切り替えだ。
登場人物達にも全然感情移入ができない。
ビデオで「ワクチン作りました。効果もあります」と公言しているまだ会ったこともない博士に希望を託す女科学者。
なんじゃそりゃ!!?
君はyoutuberに憧れる女子中学生かね?
この女科学者、『ディープ・ブルー』のスーザン並みに最後食われるのかと思いきや全然そんなことはない。
このどう見ても自己中な女の行動は映画の最後まで正当化されるのである。
劇中ところどころに町を空撮した映像が入る。
おそらくライブラリー映像だと思うのだが、無編集で使っているから酷いのなんの。
ヘリコプターの機影が入ったまま使用しているので、てっきり救助隊でも来たのかと思った。
ビル群を空撮した映像も普通に車がびゅんびゅん走っている。
これ、ゾンビによって荒廃した世界が舞台だよね??
ゾンビ映画で忘れてはならないのがグロシーン。
残念なことにこの映画ではグロシーンを有効活用できていない。
グロシーンが入ったとたん物語がそこでストップしてしまうのだ。
特に酷かったのが赤ん坊の下り。
妊婦の腹を裂いて取り出して、さらに感染した赤ん坊を殺すって...。
監督、あんたはこのシーンで観客に何を伝えたかったの。
この映画のグロシーンは単なる酷いシーンである。
この映画、ただ単に酷いだけなのかというとそんなことはない。
見どころはちゃんとある。
それは、ダニー・トレホとイーサン・サプリーが出演していることである。
ダニー・トレホは言わずもがな。
私が好きなトレホは『デスペラード』で十字架のナイフを投げるトレホである。
イーサン・サプリーは『エボリューション』等に出演しているが、私が忘れられないのは小学生の時に夢中になって見ていた『ボーイ・ミーツ・ワールド』のフランキーである。
作中での二人の活躍はほんとに素晴らしい。
ある意味、この二人が出演しているから最後まで見られたと思う。
特に制作陣はダニー・トレホの扱い方をよくわかっている。
どう控えめに見てもトレホが拳銃を撃ったときだけ命中したゾンビがふっとんでいるし、作中最もまともなことを言っているのはトレホ演じるカスピアンである。
実はトレホは映画が始まって30分くらいのところであっさりゾンビ化してしまう。
もうすごくあっさりしてて、観客としてはびっくりしたり悔しがる暇すらないほどだ。
ゾンビ化したトレホは信頼していた仲間によって葬られるわけだが、その殺され方が実に素晴らしい。
トレホゾンビだからそれくらいじゃ死なないよね、という制作陣の気配りが感じられる。
しかし、この映画あと少し頑張ればいい映画になったと思う。
なんせ、人間がなぜ(作中の)ウイルスに感染したらゾンビ化するのかをきちんと考察しているのである。
その点では『ワールド・ウォーZ』より丁寧と言えるのではないか。
本作ではゾンビ化する原因はどうやら微生物らしい。
微生物は人間に感染すると、体を動かす主導権を奪い筋肉を自在に動かす。
だからこそ、「もしかしたら感染者には意識が残っているのかもしれない」という疑問が生まれる。
さらに、微生物同士はなんらかの方法を使って互いに情報伝達をしている。
ここだけ聞けば、『遊星からの物体X』を彷彿とさせるではないか。
微生物という群に注目したのだから、群vs個人という構図で徹底的に人間を皮肉るのかと思った。
作中の人間サイドは一切統率がとれておらず、皆自分勝手な行動をとっていたから、その構図できちんと描けばいい映画になったと思うのだが、やはりアルバトロス。私達を裏切らない。
フェーズ6は傑作映画―滅亡した世界でのロードムービー―
Netflixで『フェーズ6』という映画を見てみた。
見終わった後に「かなり私好みの映画だなー」と一人唸ってしまったが、それもそのはず。
この映画の監督は『ラスト・デイズ』のアレックス・パストール監督なのである。
『フェーズ6』は致死率100%のウイルスが蔓延した世界で生き残りをかけて、あるビーチに向かって旅をする四人の若者の話である。
ウイルスといってもゾンビや感染者に襲われるとかそんな映画ではない。
あくまで感染して発症したら体から出血をして死ぬ正統派(?)ウイルスなのである。
また、この手の映画にはお約束の「ウイルスよりほんとに怖いのは人間だよね」というシーンも欠かしていない。
監督はきちんとそのシーンも入れている。
が、その「ほんとに怖いのは人間だよね」というシーンを引っ張らないのが素晴らしい。
テンポがいいし、物語が逸れないからである。
そして、忘れてはならないのは、この映画で最も「ほんとに怖いのは人間」の役割をしているのは他ならぬ主人公達である。
だから、主人公達よりも怖い人間が出てきてしまっては、この映画は壊れてしまうのだ。
この映画で思わず唸ってしまったポイントを3つに分けてみた。
・マスクの落書きでキャラクターを描ききっている点。
主人公達は感染しないためにマスクをしている。
映画で登場人物にマスクをさせるというのは諸刃の剣だ。
シーンに緊張感を持たせることができる一方で、誰が誰なのかわからなくなってしまう。
最悪誰なのかわかっても、映画的に見栄えがよろしくない。
顔を覆い隠すということは、映画の中ではモブキャラになってしまうのだ。
この映画ではそれをマスクの落書きで補っている。
おそらくブライアンが提案したであろうこの落書き。
それぞれのキャラが四人の中でどのような立ち位置なのかがマスクに描かれた絵だけで判別できる。
また、マスクに落書きをするという、ちょっとこの世の中を舐めた感じが物語を加速させる。
・背景である自然が美しく描写されている。
この映画は全体にやるせない感じが染み込んでいる。
ウイルスによって死滅するのは人間だけ。
生き死にに必死になり、自ら科したルールに意地になるのも人間だけ。
物語が進むにつれて当初の目的が曖昧になってくる。
ビーチに行って何したいんだっけ?と主人公達にも観客にも疑問が湧き始める。
なんのためにルールを設けたんだっけと、自分達を守るはずのルールはいつしかルールありきの自分達になってしまっている。
主人公達は美しい景観の中ただ車を走らせる。他人から様々な物を奪いながら。
主人公達のどうしようもない感じが人間と自然の対比で残酷に描かれているのだ。
・この映画のキーは車
マッドマックスほどではないが、この映画は車が重要な役割を果たしている。
ガソリンが無くなることは死を意味するし、車から降ろされることも死を意味する。
なにより車から降ろされたらただ黙って孤独の中死を待たなければならない。
映画の序盤で「時に生きることは死を選ぶより辛い」というセリフが出て来るが、まさに車を手放すことはそういうことである。
だから、主人公達は必死になって車を手放そうとしない。
他人を見捨てても、他人を殺しても車を守ろうとする。
それが繰り返されるからこそ、映画のクライマックス、まさにボス戦ともいえるあのシーンで一気に緊張感が走るのだ。
この映画では他にも見どころがある。
例えばダニーの旧友ケイト。
この子って四人の中で一番悪いよねとか(笑)。
なにせ自分では手を下さないけど、ダニーに銃を渡したり、夜な夜な自己中な行動をしたり。
冷静に考えたら結構冷酷でウザい女ともいえるのだが、彼女のどこか温厚そうな見た目と「こんな世の中だからこれくらいの卑怯さは居るか」と妙に納得させる感が彼女を魅力的にしている。
その他、道中で遭った人達のその後がわからないこと。
ブライアンに置き去りにされたあの人達とか、仲間割れをして一人銃を突きつけられたあの人とか。
おそらく無事であるはずがないのだが、最期まで見せてくれないのが後味が悪くて恐ろしいのである。
仮に生きていたとしても、それって幸せなのかな?とも思ってしまう。
『ラスト・デイズ』は最後に希望を見出したが、こちらの『フェーズ6』は後味、というか映画全体の空気感がよろしくない(褒め言葉)。
ブライアンがぬるいビールを口にしては「小便みたいだ」と愚痴をこぼすが、まさにこの映画の総評はそんな感じ(良い意味で)。
ハッピーエンドでもないし、バッドエンドでもない。
これからどうしたらいいのかもわからない。
幼いころの思い出の地で、生き残った主人公達がこれからも生き残っていかなきゃいけないのかと。
まさにビールが飲みたいけど、冷えてないからぬるいまま飲むかととりあえず口にするそんな感じが滲み出ている良い映画だった。