ぽんぽんびより

本業は写真家なのに町づくりや震災支援の仕事に巻き込まれてます。

ディズニー版『ノートルダムの鐘』の感想―これってそんなに名作かな? むしろ不快な駄作―

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妻におすすめされて『ノートルダムの鐘』を観てみた。

このブログでわざわざ書くまでもなく、この映画はヴィクトル・ユーゴ原作の『ノートルダム・ド・パリ』をディズニーがアニメーション化したものである。

画面の美しさやストーリーと音楽の組み合わせなど様々な要素が評価されており、ディズニー映画黄金期再来と言われるほど屈指の名作に数えられている。

 

が、私はこの映画を見ても全然面白いと思えなかった

この映画のストーリー上最も伝えたい事は映画のラスト、カジモドがエスメラルダに手を引っ張ってもらって大聖堂の外の世界へ踏み出し、外の世界に迎え入れられた点であると言える。

本来ならば物語上最もテンションが上がるシーンであるが、私は全然盛り上がれなかった。むしろ不快感すらあった。

 

この映画最大の汚点は、カジモドを特別(過ぎる)人間にしたこである。

このカジモドという男は赤ん坊の頃に井戸に捨てられるはずだったところを司祭によって助けられる。

つまり神によって助けられるのである。

そして、フロローによって軟禁され、鐘衝きとして育てられる。

カジモドは醜い容姿として生まれ育ち……というストーリーなのだが、アニメの弊害か、そんなに醜い容姿ではないのだ。

これがゲゲゲの鬼太郎くらい怖い容姿ならわかるが、ディズニーのアニメはいかんせん醜く見えない。

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カジモドはフロローの言いつけどおり外の世界には出ず、毎日鐘楼から町を見下ろすだけの生活をする。

そんなカジモドが自分の願望をミュージカルで表現する。

そう、カジモドが『僕の願い』を歌いながら大聖堂の中をアサシンクリード並の動きで移動する

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私は、そのシーンを見た時に度肝を抜かれた。

「あれ、軟禁されてなくない?」

これが私の感想なのである。

人間というのは必ず反抗期みたいなものがある。カジモドは13歳の時とか17歳の時とかにこのアサシンクリードな技能を使って外の世界に飛び出したことはないのだろうか?

しかもこのシーン、町の描写が美しすぎるのだ。細部のディテールまで拘って描かれているので町が全然遠い世界に見えない

塔の上のラプンツェル』は良かった。

ラプンツェルが軟禁されている塔は本当に人の世界から隔絶された森の中に建てられていて、例えこの塔を一人で抜け出た所でどこに行っていいのかわからない途方にくれる感じがある。

さらにラプンツェルの育ての親ゴーテルはラプンツェルを閉じ込めるために嘘をついて育てるのだが、その嘘をつく時の顔は優しい母親のようにも見えて、ほんとうにゴーテルは自分のことを思って助言してくれているんだと錯覚してしまう魅力(魔力?)がある

対してカジモドを閉じ込めているフロローは誰が見ても酷い奴だ。

これはフロローの設定のせいだと思える。

ディズニーの悪役にしては珍しく、フロローは自分の行いが正義だと信じている。

そのため、フロローは自分の本性を惜しげもなく周りに見せつけている

これでは、フロローに騙されているカジモドに共感できない

アサシンクリード並の運動神経があるならカジモドはフロローを一、二発殴ってやれば良いのだ。

塔の上のラプンツェル』は18歳という年齢が良かった。

そりゃー、この年齢の女の子なら親の言うことばかり聞くのも嫌になるよねという説得力がある。

しかも、絵を描くスペースがなくなってきたことや自分の誕生日に空に舞い上がる「灯り」の正体を突き止めたいという明確な目的もある。

塔の外の世界を案内してくれる、盗賊(フリン aka ユージーン)という存在もある。

塔の上のラプンツェル』は外の世界に踏み出す因果関係がちゃんと一つ一つしっかりしているのだ。

ノートルダムの鐘』のカジモドが言いつけを守っている理由が全然理解できない。

そんな私の捻くれた疑問に対してディズニーはとんでもない設定で対抗してくる。

カジモドは醜い容姿を持ちながらも優しく純粋な青年

うん、そんなわけねえだろ!

いや、なぜそうなのか説明してくれ!!

だってカジモドは自分は母親に捨てられたと思っており、あの自分の邪悪さを隠しもしないフロローに育てられているのである。

そんなカジモドが優しく純粋な青年に育つか!!!?

これも、この作品がカジモドを特別視している点である。

 

カジモドはある日思い切って大聖堂から抜け出し、道化の祭りに参加する。

カジモドはそこでエスメラルダに出会う。エスメラルダは人々にいじめられるカジモドをかばった……ということになっているが、どう見ても最初にかばったのはクロパンだろう!!

クロパンが「今日は町で一番の醜男を決める日だ!」と叫んで、街中の人はカジモドを盛り上げる。

はっきり言って、町の人に盛り上げられるシーンも不快である。

ここでカジモドが祭り上げられるのは、この日があべこべの日だから祭り上げられているのであって、それはつまりカジモドは結局醜い男ということだろう。

カジモドはその後衛兵に野菜や果物を投げられて汚される。

町の人々はそんなカジモドを見て面白がり、衛兵のいじめに加担する

ここもとっても不快。

普通に、この町の人達ってすっげー嫌な奴じゃん

そこにエスメラルダが颯爽とやってきて、『フライト・ゲーム』のリーアム・ニーソンばりに演説をして町の人達を説得し、さもいじめを止めなかったフロローが悪いみたいな空気にしている。

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でも、悪い奴らってフロローじゃないよね?

少なくともフロロー一人ではない。

というか、なぜエスメラルダがカジモドに優しくしているのかがわからない。

 

エスメラルダは大聖堂で「虐げられた者も 皆 神の子」という趣旨の歌『ゴッド・ヘルプ』を歌う。

つまり人類皆平等ということである。

この辺りは見ていて「うん、そうだ。そうだ」と思うのだが、カジモドの親友である石像達は『ガイ・ライク・ユー』の中で、カジモドは「他の男とは違う 君は特別な男」という趣旨の歌を唄う。

いやいや、だからさ、それっておかしくない?と思うのだ。

カジモドは自分の特別な境遇と容姿を嫌っているのだろう。

皆と同じような暮らしをしたいと思っているのだろう。

そんな男に「君は特別な男」なんて言って勇気づけになると思う??

 

カジモドはエスメラルダが本当に恋をしているのはフィーバスだと知って落ち込む

この下りも私は全然共感できない

なぜなら、観客である私はエスメラルダとフィーバスが『ローマの休日』のあの二人並に息の合ったやりとりで死線をくぐり抜けてきたことを知っているからだ。

だから、うん、そりゃエスメラルダとフィーバスは結ばれるよねと思う

カジモドは逃れてきたフィーバスを匿うのだが、そこも納得できない。

だって、恋敵だよ

カジモドにとっての初恋って、それこそその辺の連中の初恋より重く大切なものだよ

それなのに、フィーバスを匿っちゃう。

あれだけ言いつけを守ってきたカジモドなのに、ここではフロローを裏切って、恋敵であり出会って間もない相手のフィーバスを優先してしまう。 

納得できない。

でもこれもディズニーさんは「カジモドは優しく純粋な青年だから」で片付けちゃうのでしょう。

 

物語のクライマックス、カジモドとフロローは一騎打ちをする。

フロローはそこで母親のことをカジモドに打ち明ける

カジモドは驚く。

でも、観客は驚かない

なぜなら観客はずっと前に知っていたから

てか、カジモドの母親もジプシーでエスメラルダもジプシーなんだから、そこもっと盛り上げられんかったん?という疑問の方が浮かぶ

カジモドを追い詰めたと思ったフロローだったが、ついに神の逆鱗に触れて死亡する

なぜ??

フロローはカジモドを拾ってから20年の間も数々の悪事を働いていただろう。

ていうか、カジモドと会う前から悪いことしてただろう。

それならばここで神がついに怒る理由がわからない

この映画の最初の約束に反したから、という理由かもしれないが、結局それってカジモドを特別扱いしているということである。

この辺の下りも心底不快である。

ここは石像達ユーゴ、ヴィクトル、ラヴァーンがジャッキー・チェンサモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウ並に息の合った動きでカジモドを援護して、カジモドがちゃんとフロローと決着をつける

カジモドがアサシンクリードな体術でフロローに一撃を食らわすが、カジモドは心が優しいのでトドメはささない

カジモドとエスメラルダはその場を去ろうとするがフロローは尚もエゴイストを発揮してカジモドを殺そうとするそこに神の怒りが発動する

てな流れにしないと。

 

映画のラスト、エスメラルダに手を引っ張られてカジモドは外の世界に足を踏み出す

ただし、ここのカメラワークが気に食わない

エスメラルダは子どもを覗き込むかのように上からカジモドに手を差し出す

なんじゃそら。

カジモドは20歳だぞ!!

カジモドは恐る恐る大聖堂の外へ出る。

でも、観客はとっくの昔にカジモドがアサシンクリード並の動きで道化の祭りに参加するため外の世界に出たのを見ているので特に感動はない。

幼い女の子が近づいてきて、カジモドの顔に手を添える

この演出も不快。

この映画の中でカジモドの容姿について触れられたのは道化の祭りの時だけである。

その後は終始、フロローのエゴイズムを物語の加速剤にして恋物語が展開されていたので、ラストのこの女の子の行動が取ってつけたように見える

女の子に手を引っ張られてカジモドは町の人達の中へ歩を進め、迎え入れられる……となっているがそれも意味不明。

フロロー達権力側と闘っていたのはジプシーだろう。

だからジプシーがカジモドを受け入れるのはわかるが、町の人達が受け入れる理由はよくわからん。

っていうか、この町の人達は道化の祭りでカジモドを祭り上げたかと思いきや衛兵がいじめを始めたら手のひらを返してそれに加担したやつらだろう

そんな連中を信じられる??

そんな連中とこれから幸せに暮らしていける?

うーん、無理だと思うね。

そもそもこの町の人達とフロロー側との距離感がつかめない。

カジモドがアベンジャーズな力で鎖を引きちぎり、アサシンクリードな動きでエスメラルダを救い出し、大聖堂のステンドグラスの前でエスメラルダを抱えて町の皆が蜂起する下りも全然共感できない。

エスメラルダってそんなに自由と平等の象徴だったっけ?

この町の人達ってフロローのせいで生活を制限されてたっけ?

フロローが地下牢で拷問をしているシーンはあるけど、道化の祭りだって別に規制されていなかったし、なんならフロローも祭りを見に来てたよね?

だったら、町の人の暮らしってそんなに抑制されてないのでは?

少なくとも表向きは権力によって抑圧されてない気がする。

だから、フロローを倒したカジモドを迎え入れる町の人達の描写が薄っぺらく感じてしまうのだ

 

そして、私がこの映画で最も解せない。心底不快で仕方ないのが石像達である。

彼らはカジモド(とジャリ)の前でしかキャラクター化しない

これって、結局カジモドが特別だっていいたいのでしょう?

それってなー。

カジモドって特別だから虐げられているんだよね?

だから、映画では石像のキャラクター達が実は他の人にも認知される下りを入れて、カジモドは特別だと思っていたけど、それって普通の人にも認知できる”特別”だったんだ。

つまり、カジモドの”特別”は特別じゃないんだ!!

っていう話にしないと結局カジモドは他の人と違うという認識から抜け出せないのではないかしら。

 

こんだけカジモドは特別だ!!と劇中で描いておきながらエスメラルダはフィーバスを選ぶ。

金髪イケメンの”普通”の人を選ぶ

いったいどこにカタルシスがあるん??

 

そんなわけでこの映画の終始「カジモドは特別」な感じが受け付けなかった。

テーマがテーマだけにそれって結局「障害者は特別」「虐げられている人は特別」という感じが拭えない。

1996年公開とはいえ、今時外に出る=ハッピーエンドというのも……。

虐げられる人は、外に出られても容姿や境遇でバカにされるから、外に出ないんでしょう。

そこに対するアンサーになっていない。

 

 

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やたらと恋愛描写を入れたがる邦画は『ドルフ・ラングレン 処刑鮫』を見習うべき―物語の軸がぶれないということ―

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Netflixで『ドルフ・ラングレン 処刑鮫』を観てみた。

 

まあタイトルからしてわかる通りB級映画である。

つまり、多くの男子の大好物である。

湖に鮫が現れてどうなるこうなるというストーリーだけでもわくわくするのに、ドルフ・ラングレンが出演するとなれば観ないわけにはいかない。

肝心の映画の出来は予想通り。

そもそも制作費が200万ドルなので(ジョーズは700万ドル)、キャストが偉く少なくサメのCGも素材を買ってきたのかな?と思わせるチープな出来である。

銃を発砲した時のマズルフラッシュも合成した感満載である。

もちろんこれら全てを含めて素晴らしい

これぞB級映画である

 

で、この映画の素晴らしい点、ほんとに手を叩いて賞賛しないといけない点がある。

それは物語の目的が一貫していることである。

登場人物達はただ一つの目的に向かって動いている。

そう、サメを退治(捕獲)すること

町の保安官もサメ番組の人も学者もマフィアもドルフ・ラングレンも目的はサメを捕獲もしくは退治することだ。

そこは映画の最初から最後まで一切ぶれない。

途中マフィアが娘をネタにドルフ・ラングレンを脅迫する展開が入り、ドルフ・ラングレンは嫌々ながらもマフィアに協力せざるを得なくなるが、その展開でさえサメ捕獲の物語を加速させる。

ああ、素晴らしい。

物語の軸がぶれないとはほんとに映画を作る上で最低限のマナーである。

 

いや、当たり前だろと思うかもしれないが、物語の軸がブレる映画はよくあるのだ。

例えば、2006年版の『日本沈没』、2009年の『感染列島』。

私はこれらの映画がほんとに嫌いなのである。

今まで当たり前だった日常が目の前で崩壊していってるのに主人公とヒロインのどうでもいい恋愛話が進行する不愉快さ

恋愛話が挿入された途端に緊張感が薄れる

なぜなら映画の中で起きている解決しなければいけない問題と登場人物の恋愛は全く別の軸だからである。

恋愛を描きたいならきちんと恋愛に軸を置かなければならない。

災害で崩壊する中での人間模様に軸を置きたいならきちんとそっちに軸を置かなければならない。

被災地に何度も行った人間として断言するが、日常が壊れていく中で人は悠長に恋愛など出来ないのである。

1000歩譲って『日本沈没』と『感染列島』が東日本大震災前に出来た映画だとしても、阪神淡路大震災の後の映画だろう。

はっきり言って両者は浅はかな映画である。

 

それに引き換え『ドルフ・ラングレン 処刑鮫』は良い映画だった。

やたらと恋愛描写を入れて物語の軸をぶらぶらさせる日本の監督はこの映画を見てストーリーテリングを学ぶべきだ。

 

 

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【ポケスペ】なぜ小学生だった私はポケットモンスターSPECIALの世界に惚れたのか

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先日は真斗さんの描くポケスペの絵について語ったので、今回はポケスペの世界観について語ろうと思う。

また、例のごとくこのブログはポケスペの作画交代を批判したり、真斗さんの復活を希望したり、今のポケスペより昔のポケスペの方が良かったと主張するものではないことをここに明記する。

 

私がポケスペの第1巻を買ったのは、忘れもしない、広島の福屋の向かえにあるフタバ図書八丁堀店である。

当時フタバ図書の2階がまるまる漫画コーナーになっており、そこでポケスペに出会った。(店内には、ポケスペのPOPも展示されていた。)

当時の私はまだ小学○年生という雑誌を知らなかったので、ポケスペの中身も知らないで購入したことになる。

だが、それは別に珍しいことではなく、あの頃ポケモンにハマっていた小学生はポケモンと名のつくマンガは片っ端から買っていた。

ギエピーはもちろん電ピカ、四コマ劇場、インカムでピカチュウと会話するあさだみほ先生の『ポケモンゲットだぜ!』、中村里美先生の『ポケットモンスター全書』、姫野かげまる先生の『ポケモンカードになったワケ』、印照先生の『めざせ!!カードマスター』などなど。

その中でもポケスペというのはどこか特別だった。

前回の記事でも触れているが、ポケスペポケモンの世界観を補間するのにベストなマンガだったからだ。

eigaanime.hatenablog.jp

 

何度も言うが、当時はポケモンの世界に関する情報がほんとに不足していた

ポケモンの姿は基本的にゲーム中のドット絵か取説や攻略本に描かれている絵でしかわからない。

「そりゃそうだろ!」と思われるかもしれないが、今のように動きのある絵ではない。

ゲーム中ポケモンが技を繰り出すときだって、画面がチカチカ光ってデュクシ」と音がするだけである。(個人的に好きなエフェクトははかいこうせんだった。)

ポケモンいきいきとしたモーションをきちんと見れるようになったのは、『ポケモンスタジアム』が発売されてからだった。

また、スペックのせいもあって、ゲーム中のフィールドは(今と比べると)驚くほど狭かった

建物はいくつか建っているけど、入れる建物はわずか。

ゲーム進行上必要な建物と人しか配置されてないフィールド。

クチバシティのサントアンヌ号がいい例かもしれない。

(そんなわけないのに)同級生とサントアンヌ号に乗って旅に出る方法をあれこれ試した

子どもながらに「もっと広かったらもっと壮大な冒険ができるんだろうなー」と思いながらプレイしたものだ。

 

さて、ポケスペの単行本を買って最初の話にまず度肝を抜かれる。

「第1話 VSミュウ」

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!!!!??????

「あの幻のポケモンを第1話に!!!??? このマンガただもんではない!!!!!」

これが小学生の私の率直な感想だった。

なにせ当時のキッズ達にとってミュウはほんとに幻のポケモンで、「ミュウというポケモンがいるらしい」という噂はあるがそれがほんとなのか実在するならどうやって捕まえるのかとにかく話題だった

ミュウ - Wikipedia

そんなミュウを堂々の1話にもってくるなんてほんとにほんと、今読み返しても挑戦的だと思う。

さらに驚かされるのは主人公レッドがニョロゾを使っていること

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オーキド博士からもらう3匹でもなくピカチュウでもなく、ニョロゾを使う!!??

レッドが幼いころからずっと一緒と聞いて納得した。

ポケモンが当たり前にいる世界で、主人公がオーキド博士からもらう前にポケモンに出会っていてもなんら不思議ではない。というか、それが普通だ。

(私が、ニョロモが最初に立案されたポケモンだと知るのは後の話)。

フシギダネが初期からソーラービームを使うのも良かった。

レベルをあげて技を覚えていくというのはメタ的な要素なので、ゲームではそれが物語を加速させていくことになるが、マンガでそれを律儀に導入されると読者としてはあきてしまうのである。

もっといえば、レッドが光を当ててフシギダネソーラービームを使うという展開が良かったのだと思う

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フシギダネが生き物っぽいからである。

こういう細かなところに、ポケモンをほんとに居る不思議な生き物と思っている子どもへの配慮が感じられた

そしてポケスペでもっとも感動したのはポケモンの技が人間にあたること

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ゲームをしながら子どもながらに「かえんほうしゃって人間にあたったらまずいんじゃね」とか「はかいこうせんって威力どれくらいなの?」と思っていたからである。

もちろん子ども向けゲームでそんな描写があってはいけないが、子どもだからとてそういう発想にならないわけではない。

そこをポケスペは問答無用で描いてきた。

ポケモンとの闘いで命を落とすかもしれない。

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ポケモンはやさしいけど、こわい生き物。

だからこそ、ポケモンと人間の共存というテーマに説得力が生まれたのだと思う。

 

また、ポケモンの小ネタを随所に挟んだシナリオ

ポケモンスタンプオーキド博士のことが語られることが多いが、私がやっぱり素晴らしいなと思うのはブルーの存在だと思う。

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公式ガイドブックに描かれていた黒いワンピースの女の子

それをここまで魅力的なキャラとしてマンガに描いてくれたのは、ほんとに嬉しかった。

それら各メディアで展開されている小ネタが入ることによって、ポケモンの世界がどんどん広がった

 

第22話の「VSウツボット」の時に進化の儀式というシーンがあるのも趣深い。

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このシーンなぞは、首藤剛志氏の構想したポケモンの世界観に通じるのではないだろうか

いずれにせよ、今ほどゲーム機のスペックもなく、ポケモン人口も少なく、ポケモンの世界観が確立されていない時代だからできたのだと思う。

それ故に、ポケスペを通してゲームでは描かれていないポケモンの世界を想像するのが楽しかった

ポケスペ第1章のラスト、ミュウが感慨深げに見返って去っていくシーン。あのシーンは章の終わりにふさわしい名シーンだと思う。

ポケスペpbkを買って、あらためて幼い頃にこのマンガに出会えてよかったと思う。

 

 

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【ポケスペ】なぜ小学生だった私は真斗さんの描くポケモンの世界に惚れたのか

Amazonで注文していたポケットモンスターSPECIALのペーパーバック版(pbk)が届いた。

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再編・再録とはいえ、今年発売された漫画に日下先生と真斗先生の名前が並んでいるのは嬉しいものがある。

つい、ポケスペの最新刊を楽しみにしていた小学生の頃を思い出してしまった。

年甲斐もなく夜遅くまで読みながら、私は「なぜあの当時(小学生の時)こんなにも真斗さんの描くポケモンの世界に惚れたのか?」を考えた。

リアルタイムで読んでいた時は作画交代や学年誌の休刊が起こるなど知る由もなかったが、それら大人の事情を知ってしまった今、改めてなんで真斗さんの描くポケモンの世界を好きになったのかを振り返りたい。

なお、ポケスペの話題はデリケートな部分もあるためはじめに断っておくが、当記事はポケスペの作画交代を非難したり、真斗先生のポケモンの仕事への復活を希望する記事ではないことを明記する

 

 

デフォルメされつつもディテールにこだわった絵

私が初めてポケモンを知ったのは1996年、小学生の時である。

友達が持っているのに影響されて、私も親に買ってもらった。

ほどなくして、コロコロコミックや小学○年生という雑誌も知ることになる。

ゲームをやっていてその世界観にぐんぐん引き込まれたが、同時にゲームのスペック不足などの関係で(今と比べると)フィールドは狭く、エフェクトもちゃちかったためにゲームの世界観を補足するのに苦労した。

今では信じられないが、当時ポケモンの世界観を知る手がかりはあまりに少なかった。

まともな攻略本も少なかったし、公式資料集みたいなものもなかった。ネットもなかったので、裏話や画像検索をすることもできない。

なんせ、ドット絵エビワラーを本来の姿とは別の姿と見間違える時代である。

pokemongo-master.com

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当時ポケモン漫画の主力といえば言わずと知れたギエピーだった。

後は『ポケットモンスター四コママンガ劇場』とか『電撃!ピカチュウ』だった。

ギエピーは自由奔放過ぎるし、電ピカはアニメを基盤にしながらも作者の世界観が色濃く出ているし、四コマはゲームの世界観補正とはちょっと違う。

そんな中でポケモンの世界観と真っ向勝負したマンガがポケスペだったのである。

 

真斗さんの、ポケモンをデフォルメしつつもディテール(皮膚の模様や肌の質感)を妥協せず描き込んでいるのが子どもながらに共感できた。

 

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特にレッドの手持ちポケモンであるピカ(ピカチュウ)の抱き心地の良さそうな小さくて丸っこい感じに憧れた読者は多いのではないだろうか。

 

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この質感を丁寧に描きつつも、デフォルメされた、記号的なポケモンの描き方ゲームボーイの画面に表示されるドット絵に親しんでいた私にはとてもリアルに見えた。

 

このデフォルメされた絵の魅力は人物にもいえる。

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(いくら子どもを描いているからといって)ちっちゃくて丸っこい感じ。

ゲームの中を動き回る主人公のドット絵を漫画絵にしたらこうだよね!という感じがした。

 

 

やさしくて、でもこわい絵

真斗さんの絵に「あたたかみのある」「やさしさをかんじる」「でも、かっこいい」と感想を述べる人はたくさんいる。

私もそう思う。

小学生の時の私も真斗さんの絵のそこに惚れた。

しかし、今こうして振り返ってみると、実はそれ以上の魅力に私(達)は気づいていたのではないかと思う。

それは、「怖い」という魅力である。

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腐ったコダック実験体にされたギャラドス、試験管の中で作られるミュウツー暴走したミュウツーの細胞ブルーのトラウマである風景

その他、切断されたアーボックサワムラーに蹴られるレッドなどなど。

真斗さんはあたたかみのある絵とは反対の、怖い絵も描かれている。

しかしこの妥協なき怖い絵に私は惚れた

小学生だからと手を抜かれていないポケモン(というゲーム)だからと舐められていないところに私達は信頼を寄せることができたのである。

この優しい面もあり怖い面もあるという真斗さんの絵の魅力を語る時、レッドのセリフをそのまま引用するといいのではないか

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やさしくて、でもこわい。

いつまでも友だちでいてくれる。

 

真斗さんの描くマンガは、まさに私にとって友達であった

 

こういうデフォルメしつつもディテールを失わず、優しさと怖さを兼ね備えた絵をかける真斗さんはおそらくものすごく世の中の事象を観察しているのだと思う。

真斗さんのホームページに掲載されている公開画を拝見すると、『羽ねこ』などはおそろしいほどディテールが細かく、羽ねこが猫のようにもドラゴンのようにも見えて完成度が高い。

『祭り絵』の徹底したこだわりと丁寧さは電柱にこだわりをみせる庵野秀明さんを彷彿とさせる。

総じて、真斗さんという方は感受性が豊かなのだろうなと思う

感受性が豊か故にこの世の優しい部分にも怖い部分にも気づけ、描くことができる。

そうして描かれた絵はとても愛らしい(可愛らしさ・いとおしさ・可憐さ)。

 

日下先生がかの呟きの中で以下のようにおっしゃっている。

真斗先生との出会いを回想すると…、一番古い記憶までさかのぼるが、96年の11月~12月ごろだ。すごく不思議なことに「初めて会った日」より、「初めて彼女の絵を見た日」のほうが、鮮明に頭の中に刻み込まれている。

これには激しく同意である。

真斗さんの絵は、一度見たら忘れられない不思議な魅力がある。

信者だなんだという声を時折ネットで見つけることがあるが、信者とかではなく、やはりあの当時、リアルタイムでポケスペを楽しみにしていたファンにとって真斗さんの絵は良き友達のようなものだったのではないかと思うのだ

 

 

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ゾンビ・アルカトラズ―酷いけどダニー・トレホとイーサン・サプリーのファンは見てもいい映画―

Netflixで『ゾンビ・アルカトラズ』という映画を見てみた。

 

酷い映画だった(笑)

アルバトロスムービーになにかを求めてはいけないが、酷い。

ただし、酷い映画の中では面白い部類に入る。

だけど、酷い。

 

 

冒頭から妊婦を乗せた車がカーチェイスをするのだが、妊婦を乗っけてるのにそんなに飛ばしてええのんかいと突っ込まざるを得ない。

車は案の定スピードの出しすぎ、というか運転手が調子にノリすぎて横転

その横転のシーンがチープなCGを使っているのでどう見てもコメディ映画のワンシーンにしか見えない。

場面は変わってアルカトラズ。

刑務所の機能をフルに使って防衛しているのだけど。

いや、あのね、アルカトラズはかつて刑務所だけだっただけで、今はただの観光地だからね?と突っ込まざるをえない。

そんなアルカトラズもあっさりゾンビに襲撃されてしまう。

それは映画が開始して8分の出来事。三宅隆太監督が話していた1幕から2幕へのベストな移行タイミングを見事に無視した切り替えだ。

登場人物達にも全然感情移入ができない。

ビデオで「ワクチン作りました。効果もあります」と公言しているまだ会ったこともない博士に希望を託す女科学者

なんじゃそりゃ!!?

君はyoutuberに憧れる女子中学生かね?

この女科学者、『ディープ・ブルー』のスーザン並みに最後食われるのかと思いきや全然そんなことはない。

このどう見ても自己中な女の行動は映画の最後まで正当化されるのである。

劇中ところどころに町を空撮した映像が入る。

おそらくライブラリー映像だと思うのだが、無編集で使っているから酷いのなんの。

ヘリコプターの機影が入ったまま使用しているので、てっきり救助隊でも来たのかと思った。

ビル群を空撮した映像も普通に車がびゅんびゅん走っている

これ、ゾンビによって荒廃した世界が舞台だよね??

ゾンビ映画で忘れてはならないのがグロシーン。

残念なことにこの映画ではグロシーンを有効活用できていない。

グロシーンが入ったとたん物語がそこでストップしてしまうのだ。

特に酷かったのが赤ん坊の下り。

妊婦の腹を裂いて取り出して、さらに感染した赤ん坊を殺すって...

監督、あんたはこのシーンで観客に何を伝えたかったの。

この映画のグロシーンは単なる酷いシーンである。

 

 

この映画、ただ単に酷いだけなのかというとそんなことはない。

見どころはちゃんとある

それは、ダニー・トレホとイーサン・サプリーが出演していることである。

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ダニー・トレホは言わずもがな。

私が好きなトレホは『デスペラード』で十字架のナイフを投げるトレホである。

イーサン・サプリーは『エボリューション』等に出演しているが、私が忘れられないのは小学生の時に夢中になって見ていた『ボーイ・ミーツ・ワールド』のフランキーである。

作中での二人の活躍はほんとに素晴らしい。

ある意味、この二人が出演しているから最後まで見られたと思う。

特に制作陣はダニー・トレホの扱い方をよくわかっている。

どう控えめに見てもトレホが拳銃を撃ったときだけ命中したゾンビがふっとんでいるし、作中最もまともなことを言っているのはトレホ演じるカスピアンである。

実はトレホは映画が始まって30分くらいのところであっさりゾンビ化してしまう。

もうすごくあっさりしてて、観客としてはびっくりしたり悔しがる暇すらないほどだ。

ゾンビ化したトレホは信頼していた仲間によって葬られるわけだが、その殺され方が実に素晴らしい

トレホゾンビだからそれくらいじゃ死なないよね、という制作陣の気配りが感じられる。

 

 

しかし、この映画あと少し頑張ればいい映画になったと思う。

なんせ、人間がなぜ(作中の)ウイルスに感染したらゾンビ化するのかをきちんと考察しているのである。

その点では『ワールド・ウォーZ』より丁寧と言えるのではないか。

本作ではゾンビ化する原因はどうやら微生物らしい。

微生物は人間に感染すると、体を動かす主導権を奪い筋肉を自在に動かす。

だからこそ、「もしかしたら感染者には意識が残っているのかもしれない」という疑問が生まれる。

さらに、微生物同士はなんらかの方法を使って互いに情報伝達をしている。

ここだけ聞けば、『遊星からの物体X』を彷彿とさせるではないか。

微生物という群に注目したのだから、群vs個人という構図で徹底的に人間を皮肉るのかと思った

作中の人間サイドは一切統率がとれておらず、皆自分勝手な行動をとっていたから、その構図できちんと描けばいい映画になったと思うのだが、やはりアルバトロス。私達を裏切らない。

 

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フェーズ6は傑作映画―滅亡した世界でのロードムービー―

Netflixで『フェーズ6』という映画を見てみた。

 

 

見終わった後に「かなり私好みの映画だなー」と一人唸ってしまったが、それもそのはず。

この映画の監督は『ラスト・デイズ』のアレックス・パストール監督なのである。

 

 

『フェーズ6』は致死率100%のウイルスが蔓延した世界で生き残りをかけて、あるビーチに向かって旅をする四人の若者の話である。

ウイルスといってもゾンビや感染者に襲われるとかそんな映画ではない。

あくまで感染して発症したら体から出血をして死ぬ正統派(?)ウイルスなのである。

また、この手の映画にはお約束の「ウイルスよりほんとに怖いのは人間だよね」というシーンも欠かしていない。

監督はきちんとそのシーンも入れている。

が、その「ほんとに怖いのは人間だよね」というシーンを引っ張らないのが素晴らしい。

テンポがいいし、物語が逸れないからである。

そして、忘れてはならないのは、この映画で最も「ほんとに怖いのは人間」の役割をしているのは他ならぬ主人公達である。

だから、主人公達よりも怖い人間が出てきてしまっては、この映画は壊れてしまうのだ。

 

この映画で思わず唸ってしまったポイントを3つに分けてみた。

 

・マスクの落書きでキャラクターを描ききっている点。

主人公達は感染しないためにマスクをしている。

映画で登場人物にマスクをさせるというのは諸刃の剣だ。

シーンに緊張感を持たせることができる一方で、誰が誰なのかわからなくなってしまう。

最悪誰なのかわかっても、映画的に見栄えがよろしくない。

顔を覆い隠すということは、映画の中ではモブキャラになってしまうのだ。

この映画ではそれをマスクの落書きで補っている。

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おそらくブライアンが提案したであろうこの落書き。

それぞれのキャラが四人の中でどのような立ち位置なのかがマスクに描かれた絵だけで判別できる

また、マスクに落書きをするという、ちょっとこの世の中を舐めた感じが物語を加速させる。

 

・背景である自然が美しく描写されている。

この映画は全体にやるせない感じが染み込んでいる

ウイルスによって死滅するのは人間だけ。

生き死にに必死になり、自ら科したルールに意地になるのも人間だけ。

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物語が進むにつれて当初の目的が曖昧になってくる。

ビーチに行って何したいんだっけ?と主人公達にも観客にも疑問が湧き始める。

なんのためにルールを設けたんだっけと、自分達を守るはずのルールはいつしかルールありきの自分達になってしまっている。

主人公達は美しい景観の中ただ車を走らせる。他人から様々な物を奪いながら

主人公達のどうしようもない感じが人間と自然の対比で残酷に描かれているのだ。

 

・この映画のキーは車

マッドマックスほどではないが、この映画は車が重要な役割を果たしている。

ガソリンが無くなることは死を意味するし、車から降ろされることも死を意味する

なにより車から降ろされたらただ黙って孤独の中死を待たなければならない

映画の序盤で「時に生きることは死を選ぶより辛い」というセリフが出て来るが、まさに車を手放すことはそういうことである。

だから、主人公達は必死になって車を手放そうとしない。

他人を見捨てても、他人を殺しても車を守ろうとする

それが繰り返されるからこそ、映画のクライマックス、まさにボス戦ともいえるあのシーンで一気に緊張感が走るのだ。

 

この映画では他にも見どころがある。

例えばダニーの旧友ケイト

この子って四人の中で一番悪いよねとか(笑)。

なにせ自分では手を下さないけど、ダニーに銃を渡したり、夜な夜な自己中な行動をしたり。

冷静に考えたら結構冷酷でウザい女ともいえるのだが、彼女のどこか温厚そうな見た目と「こんな世の中だからこれくらいの卑怯さは居るか」と妙に納得させる感が彼女を魅力的にしている。

その他、道中で遭った人達のその後がわからないこと。

ブライアンに置き去りにされたあの人達とか、仲間割れをして一人銃を突きつけられたあの人とか。

おそらく無事であるはずがないのだが、最期まで見せてくれないのが後味が悪くて恐ろしいのである。

仮に生きていたとしても、それって幸せなのかな?とも思ってしまう。

 

『ラスト・デイズ』は最後に希望を見出したが、こちらの『フェーズ6』は後味、というか映画全体の空気感がよろしくない(褒め言葉)。

ブライアンがぬるいビールを口にしては「小便みたいだ」と愚痴をこぼすが、まさにこの映画の総評はそんな感じ(良い意味で)。

ハッピーエンドでもないし、バッドエンドでもない。

これからどうしたらいいのかもわからない。

幼いころの思い出の地で、生き残った主人公達がこれからも生き残っていかなきゃいけないのかと。

まさにビールが飲みたいけど、冷えてないからぬるいまま飲むかととりあえず口にするそんな感じが滲み出ている良い映画だった。 

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七つまでは神のうち―久しぶりに声に出して叫んだホラー映画―

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Netflixでホラー映画でも見ようと検索してみたら『七つまでは神のうち』というホラー映画があったので見てみた。

 

 

この映画の監督・脚本はあの三宅隆太さんなのである。

三宅隆太さんといえばライムスター宇多丸さんのラジオで映画とかスクリプトドクターとかブルボンとかについて語っているお方で、宇多丸さんのラジオを聞いている人で知らない人はいないのではないかと思う。

 

で、この映画は三宅隆太さんいわくタマフルで話してきた要素を詰め込んだ映画なのである。

「なんだ、猫か…。」とか主観ショットとか心霊映画のカメラワークとかフィクションラインとかジャンルミックスとかカニと修造理論とか色々な要素が詰め込まれているのだ!

 

映画の序盤はジェイソンとかの殺人鬼ホラー映画っぽいのに途中でガラッと雰囲気が変わる。

時間を図ってみたら映画が始まって25分〜30分のところ(1幕から2幕に移る)で、あの日本人形の下りが始まるのである。

もうその日本人形の下り、いや、メリーさんの電話的な下りはほんとに怖く「うぇあ! ぅわわ!」と久しぶりに声に出して叫んでしまった。

2幕から3幕に移ると一気に話が加速し、「ああー、今までの話ってそういうことだったのかー」と観客として納得する。

一連の出来事が終わった後のお見送りの時間も素晴らしい。

「あー、なるほど。俺はこういう映画を見てたのか」と映画を見終わえる。

徹底した復讐劇も素晴らしかった。

物語のラスト、てっきりあの子だけ助かるのかと思いきや一番苦しいやり方で仕返しをするなんて容赦ないな(褒め言葉)と。

おそらくあの時の復讐している側に私が感情移入できたのは、私も親になったからだと思う。

心霊とは人の心から来るものという三宅隆太さんらしい残忍さだった。

 

ネットを見てみると映画の序盤の主人公の行動に対する指摘が書かれているが、私はむしろあの方がリアル感があった。

「いや、そんな隠れ方絶対見つかるでしょ」とか「そんなことより警察に連絡しろ」とか「ええから目隠しとったれよ」とか突っ込みどころはあるが、それらを全部含めて「あー、この子人生でずっと利己的な行動を選択してきたんだな(しかも粗だらけの)」と映画のラストに繋がる伏線になっていたと思う。

 

この映画で惜しいのはそういう物語の粗でもなく、低予算故の特殊効果のヘボさでもなく、2011年に公開したことだと思う。

やはりあの震災の年に公開したのは痛手だったのではないか。

もう少し話題になってもいい映画だったと思うだけに残念。

今はNetflixで見れるのでぜひ皆さん挑戦していただきたい。

 

 

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