なぜ踊る大捜査線はクソつまらなくなったのか―観客は1997年から成長してるんだよ―
Netflixで劇場版踊る大捜査線の3作目(踊る大捜査線THE MOVIE 奴らを解放せよ)があったので見てみた。
この映画はライムスターの宇多丸さんが酷評していたので、どれだけ酷い映画なのかはあらかじめ把握済みである。
が、見てみると、とにかく予想よりも酷い。
酷すぎる。
酷すぎて「踊る大捜査線ってこんなにつまらなかったっけ?」と自分の記憶を疑ったほどである。
踊る大捜査線のテレビドラマが放映されたのは1997年。
私が小学生の時だった。
毎週欠かさず両親と見ていたのを思い出す。
踊る大捜査線がなぜあんなに面白かったのか。
それはリアリティとフレッシュさと90年代の不安と滲み出る和久さんの人生観があったからだと思う。
踊る大捜査線のリアリティ
踊る大捜査線は「警察官も所詮は組織の一員でサラリーマンと一緒だよね」ということをよく描けていた。
組織の一員だから上司がいて、支店と本店の違いがあって、会議の時に座る席も決められていて、接待も必要で、残業はカップラーメンを食べながら嫌々しないといけない。
踊る大捜査線以前の刑事ドラマのような情熱と人情で時にはルールを破ってでも事件を解決し被害者を守るということは実際の刑事には難しいよね、というリアリティが私達視聴者を釘付けにしたのである。
だからこそ、テレビドラマシリーズの最終回で室井さんが青島と一緒にルールを破って犯人を探す展開が熱かったのである。
踊る大捜査線のフレッシュさ
踊る大捜査線は脱サラした青島が刑事になるところから始まる。
念願の刑事になったのに周りの同僚は事件解決を仕事の一つと捉えており、パトカー一つ使うのに書類が必要なことやバリバリの縦割り社会に戸惑い、呆れ、腹も立てる。
しかしドラマが進むに連れて、「事件に大きいも小さいもない」という恩田さんのスタンスや刑事としての自分の勘を信じる和久さんの生き様に影響を受け、青島は警察組織の中での自分の立ち位置をポジティブに考え始める。
この「自分の理想とは違う世界に入り込んでしまったけど、その中でうまく自分を理想に近づけていく」青島のフレッシュさが視聴者の心を掴んだ。
90年代の不安
踊る大捜査線シリーズに出てくる犯人は1990年代後半の我々の不安をよく表している。
酒鬼薔薇事件が発端となった少年への嫌悪感。
宮崎勤事件を代表としたアニメへの恐怖感。
インターネットやパソコンの急速な普及。
グローバル化が進み外国を気軽に行き来できるようになった日本。
などなど。
加えてノストラダムスの大予言が流行っていた時代である。
世紀末の独特な空気感があの当時はあった。
そんな時代に日常生活に飽きたから犯罪を犯してしまったとか
なんかよくわからない闇のルートで爆弾や銃を手に入れてますとか
アニメオタクが歪んだ性癖で女性を暴行してますとか
インターネットで崇められている猟奇殺人犯がいますとか
ゲーム感覚で犯罪をこなす若者がいますとか
機械しか信用しないプロファイリングチームとか
にリアリティを感じることができた。
滲み出る和久さんの人生観
そんな現代的でよくわからない理由で犯罪を犯す者に対峙する青島は縦割り社会の窮屈さもあって自分を見失うことがしばしばあった。
そんな青島に対して厳しく、でも根は優しく諌める和久は青島にとっても視聴者にとっても救いだった。
「正しいことをしたければ偉くなれ」とか「疲れるほど働くな、次がある」とか「上の者のために自分の信念を曲げる必要はねえよ」などは青島に向けられた言葉だが、私達は青島を通して自分への言葉だとしっかり受け止めた。
視聴者は大人になった
ところが、時代は2000年をとっくに過ぎた。
インターネットは誰もが使うものだ。
ネット上でのコミュニケーションは当たり前。
犯人が犯行を犯すのには何か因果関係があることを私達は知っている。
善良な市民がある日突然アニメやネットの影響で人格が歪み猟奇殺人を起こすなんて大真面目に考えている現代人はそうそういない。
ネットカフェを使うなんて今時普通だし、リストラされた人や派遣社員なんて普通にいる。
映画の中でネットに傾倒した若者達が小泉今日子演じる日向を狂信しているシーンがあるが、最近の若者はそんな非生産的なバカなことはしない。
若者にもやらなければならないことはいっぱいあるし、それこそネットやテクノロジーに詳しい若者だったら起業でもしているだろう。
そもそもネットに繋いで、国内のしかもせいぜい湾岸署管轄内のローカルな犯罪者だけに傾倒する暇人がいるわけがない。
警察内部の人間もパソコンやネットに詳しくなさすぎである。
パソコンをいつも使っている刑事が「ネットにくわしくて〜」と言うシーンなどは鳥肌が立つくらい恥ずかしかった。
私は警察を定年退職された方が警備会社を設立し、仕事をしているのを知っている。
どんなに高齢であっても今時の人はパソコンを使うのが当たり前なのである。
さらに青島の成長してなさっぷりに腹が立った。
上司や本庁の人の意見を無視し、勝手に行動する子どもっぷり。
青島よ、お前はもう係長になったのだろう。
お前には部下もいるのだろう。
そんな男がいつまでもルールや規則を無視して勝手に振る舞って良いわけじゃないんだよ。
お前はもうフレッシュじゃないんだよ。
視聴者が1997年から成長したように、お前も成長しないといけないんだよ。
そう諭したくなった。
本庁の人間が「所轄は引越しでもしてろ」と怒鳴るシーンも違和感がある。
本店と支店の争いは劇場版の二作目で解決しているのである。
室井さんが「捜査を立て直す!」と叫び、本店も支店もSATも身分を超えて自分達で選択して行動をしたところで「本庁vs所轄」の構図は視聴者としては解決したのである。
それを踊る大捜査線の制作スタッフはまだ引きずっている。
踊る大捜査線は本店と支店の対立を描かなければいけないんだと勘違いしている。
現代では本店と支店の対立なんてリアリティを感じない。
むしろ劇場版二作目で本店と支店の対立を解消し、その後交渉人真下正義や容疑者室井慎次で「個」に注目したからこそ、あえて「チーム」というものを掘り下げて日本のこれからの組織の在り方を問わなければならなかったのである。
極めつけは和久さん(いかりや長介)を作中でも亡くなったことにして、和久伸次郎という親戚を出してきたかと思えば和久ノートというメモ帳にメモした和久さんの名言集を変なタイミングで読み上げるという愚行である。
視聴者からしたら「お前なに言ってんだ!」である。
和久さんの名言集なぞはNAVERまとめにあるのである。
それに新人の刑事がメモを読み上げた所で全然心には響かない。
あれは人生でほんとに色々な体験をされてきたのであろういかりや長介演じる和久さんが言うから言葉に深みがあったのである。
私が青島刑事なら真っ先に叱り飛ばすところである。
しかし、青島含め先輩刑事達は「見せて」「懐かしい」と和久ノートに群がる。
これでは偉人の名言集をなんの考えもなしに買っている連中と変わらない。
踊る大捜査線の成長した観客に対する不誠実さについて書かれた記事は他にもある。
こうして踊る大捜査線は単なる老害達が現代日本への偏見たっぷりで作った低レベルフィクションに成り下がってしまった。
唯一評価できるのは、小栗旬演じる鳥飼が小泉今日子演じる日向と出会うシーンである。
鳥飼は日向と目が合ってしまい、その魅力に吸い込まれそうになる。
狂気的に絵を描く音も相まって、視聴者も日向の目に吸い込まれそうになった。
あれは、やはり小泉今日子の演技力のおかげだと思われる。
だから、「あんまり目、見ないほうがいいっすよ」と慌てて止めた青島の行動も納得させられるのである。
小泉今日子はやっぱりすごい。それがわかるいい映画だった。
それ以外はほんとに見る価値のない老害映画である。
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